あの角を曲がって

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「今から習えばいいじゃない」 平沢さんに言われて、あたしはピアノを習うことにした。そのうちにいつかあの人がどんな曲を弾いていたのか思い出せるかもしれない。 今のマンションにピアノはないけど、音楽教室で練習し、家ではハミングしながらイメージトレーニング。 おばちゃんたちが来てくれて以来、お父さんが少しずつ元気を取り戻しているように見えた。引越し用の包装シートのプチプチを押しながらエアピアノしているあたしを見て、また、笑った。 いつか。 お父さんがもっと笑えるようになるまで。お父さんがあの人のことを話せるくらい元気になるまで。あたしから聞くのはやめよう。 そうして、あたしは「由希子さん」のことを知るいろんな人たちに話を聞いてみよう、と思った。旗が出てくるまで、あちこちから引っ張ってみればいいじゃない、と。 「由希子さん、紅茶党だったわよね。それも絶対ミルク。そーっと入れる癖あったわね」 「一緒に頼むデザート、さんざ迷う人だったよね」 まず、由希子さんのパート先に聞きに行った。同僚の人たちはそんな風に言った。 あたしは、鼻血っ子なせいでコーヒーは飲むな、とお父さんに言われていた。そんなことはしっかり覚えているのに、由希子さんのことだけは何も出てこない。でも、だからおそらく彼女は紅茶だったんだと思った。 デザートか。あたしも甘いものは大好きだけど、由希子さんはどんなのが好きだったんだろう。見つけたくて、アップルパイやプリンやクッキーに挑戦を始めた。いろいろ作っているうちに、何か思い出すかもしれないと。 焦げたり固まらなかったり形が崩れたり。数限りなく失敗作を生んだけど、お父さんが食べてくれた。それから平沢さんも。美味しい美味しいって。 自分で味見したときには「うえ」って捨てるような出来だったんだけど。……ありがとね。
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