あの角を曲がって

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あたしはどこかへ向かっている。走っている。クリーニング店が見えたら、アパートの塀を越えたら、あの角を曲がったら。 でもそこにはいつまでもたどり着けない。足がもたつき、地面がぐにぐにと沈み込み、ちっとも進めないのだ。 そんなもどかしい夢は、目覚まし時計がぶった切ってくれる。 朝ご飯。お弁当。出かける支度。えーと今日のパートは何時からだっけ? ダンナのワイシャツのアイロンはかけたかしら? 「ママ、今日のお迎えはじいじね?」 娘の遥の方が、よほど把握している。広告の裏紙にあたしが書き殴った予定表を見るのが遥は好きだ。 「うん、お迎えはじいじ」 あたしと平沢さんは、一人暮らしのお父さんの近所に新居を構え、遥のお迎えを手伝ってもらっている。 そうしてあわただしく朝をやり過ごし、仕事から帰って、お父さんと遥と晩ご飯。ダンナは今日は遠征先。ラジオでその放送を聞きながら後片づけをしている途中に、遥が裏紙の予定表に書き加える。 「しょー?」 遥のミミズみたいな文字に、お父さんは首をひねる。 「児童館で、シクラメン戦隊五色マンのショーがあるの!」 「うんうん、ショッキー見なきゃね」 「ショッキーはすぐやられちゃうのに。何でママそんなに好きなの?」 遥は女の子なのに戦隊ものが好きで、そのショーは必ず見に行く。つき合わされているわけではなく、あたしも好きなのだった。集団で正義の味方にかかってはやられる、下っ端ショッキー軍団の身体能力が特に。 お父さんが肩をすくめて言った。 「予定の書き込めるカレンダー、買ったら?」 「だって何となくこんな風に書くのが好きなんだもの」 あたしの答えに、お父さんがぷっと吹き出す。 「なあに?」 「いや……そういうの、お母さんから歌織に伝わってるんだな。血は繋がってなくとも」 「えっ」 「お母さんも、戦隊ものの下っ端が好きでね。広告の裏紙を束ねたメモに書き込んでたのも同じ」 ――覚えていない。覚えていない。でも。 お父さん、ようやく由希子さんのこと、話し始めてくれた。待って待って待ち続けているうちに、毎日の生活に埋もれかけていることに気づいてはいた。由希子さんのことを思い出せずじまいで、申し訳なくも思っていた。 だから、あたしは意気込んだ。 「他には? 他にもそういうの、ある?」 「そうだな。洗濯物干しっぱなしで忘れるところとか、掃除は嫌いとか」 「ぐぬ。もっとプラスなのはないの?」 「う~ん……すぐには思い出せないな。次までに考えとくよ。明日のお迎えは平沢くんで大丈夫なんだな?」 「あ、うん。今日はありがとう」 お父さんが帰り、遥が眠った後、あたしは思い返した。 あれ? ――あたしの癖や好みは、あたし生来のものじゃなかった、ってこと?
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