(一)八月

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(一)八月

「にいさん、こっちおいで」  雪さんと初めて会ったのは、去年の夏、八月上旬のことだった。雪さんはそう言って、わたしを手招きした。  雪さんの雪という名は、本名ではない。源氏名であり、個室付き特殊浴場、店の名を、パンドラ、と言った、で働く娼婦だったのである。わたしは当時、まだ十才の少年だった。  雪さんとわたしが出会ったのは、暗黒の宇宙の中にあって燦然と光り輝く銀河系の如く、大都会東京、下町の夜の闇の中に一転眩しくかつ妖しき光を放つ、ネオンの街、吉原であった。時代は、個室付き特殊浴場がまだソープランドと名乗る以前の頃である。 「にいさん、そんなにおっかない顔しないで。こっち、いらっしゃいな。お菓子、あげるから」  にこっと笑って雪さんは、突っ立って遠くからただじっと見詰める、初対面のわたしへの手招きを止めなかった。近くの電信柱に留まった一匹のあぶら蝉が、さっきから引っ切り無しに鳴いていた。  雪さんとわたしがいるのは、パンドラの裏口の前にある、吉原の裏通りのひとつだった。その路上で雪さんは、黄色いP箱を逆さまにして腰掛けていた。如何にも雪さんの丸いお尻が痛そうで、わたしはそれが気になってならなかった。何しろ雪さんの恰好ときたら、パンドラの制服である、上半身は水色のセーラー服、下半身は薄いピンクのミニスカートだけだったから。  しかし残念ながら、ミニスカートからはみ出した雪さんの柔らかそうな白い足に性的興奮を覚えるには、わたしはまだ子どもだったし、何よりも派手な制服は、雪さんの地味な容貌には悲しい程不釣合いだった。  日が暮れて夜の帳が下りた裏通りの路地は、ネオン眩しい吉原にあっても薄暗く、電信柱のはだか電球から降り注ぐ仄明かりだけが頼りだった。  その光によって作られた視界に映し出された雪さんの顔は、厚化粧であるにも関わらず痩せて青白かった。左手でわたしにおいでおいでをしながら、自分の足元で餌を貪る柴犬の仔犬の頭を、雪さんはもう片方の手で撫で回していた。その仔犬を雪さんは、タロ吉、と呼んでいた。  こんな夕刻に十才の少年であるわたしが、雪さんのような女の人のそばにいるに関しては、それなりの訳があった。わたしの家は東京都台東区千束二丁目、詰まり吉原のそばにあるごく普通の喫茶店で、父と母がこじんまりとふたりで営んでいた。ところがいつしか吉原の客と雪さんのような吉原で働く人を宛てにして、気付いたら深夜のみ営業する深夜喫茶に変貌を遂げていた。そういう訳だから、両親の監視の目を容易く逃れ、夜間わたしは自由の身だったのである。  またそういう訳だから、吉原という街はわたしにとって、幼い頃からホームグラウンドのような存在だった。ひとりぼっちで吉原の街を歩いていると、よく家出少年と間違えられ、幾度となく警視庁の警官たちに補導されたものである。  小学校が既に夏休みに入ったわたしはろくに宿題もせず、その夜も例によって吉原の表通り、裏通りを自由気ままに徘徊していた。  吉原の裏通りには、野良犬から野良猫、溝ねずみなどが勝手に住みついていたが、大型の犬はなぜかすぐに姿が見えなくなった。もしかしたら客に危害が及ばぬようにと、誰かが見回り、駆逐していたのかも知れない。当時のわたしにはまだ、想像も及ばぬことだったけれど。  タロ吉も吉原の野良犬だったが、今のところまだ駆逐されずに無事吉原に身を置いていて、散歩するわたしの足にじゃれ付いて来る野良犬の一匹だった。けれどわたしとじゃれ合った後、タロ吉は決まってわたしを置き去りに、さっさと一匹ぼっちで何処かへ出掛けていくのを常としていた。  そこでこの夜わたしはタロ吉の行方を確かめようと、汗びっしょりになりながら初めてタロ吉の後を追い掛けて来たという訳である。果たしてタロ吉はパンドラの裏口の前に来ると足を止め、突然ウオーンと切なげに吠えたのだった。  すると間もなくして裏口から、餌を盛った皿を持って、パンドラの制服をまとった雪さんが現れた。餌は野良犬には贅沢品で、ソーセージやハムが豪勢に並んでいる。タロ吉としたら堪らなかったろう。雪さんを見るなり駆け寄り、タロ吉はごしごしとその頭を雪さんの足に擦り付けた。 「よしよしタロ吉、良く来たね。お腹、空いたでしょ」  雪さんは皿を地面に置くと、P箱に足を組み腰を下ろした。 「まだ仕事前で、良かった。仕事中だと、出て来れないからね」  雪さんの仕事というのが一体どんなものなのか、まだわたしには理解出来なかった。  雪さんの額には薄っすらと汗が滲んでいて、右手でタロ吉の頭を撫でながら、雪さんは左手に朝顔の絵の付いた団扇を持ち、忙しそうにそれを扇いだ。それでもがつがつと餌に食い付くタロ吉の様子を眺めながら、青白く痩せた雪さんの顔はにこにこ笑っていた。  逞しいタロ吉の食欲が可笑しくて、思わずわたしもくすくすっと笑みを零した。その時初めてわたしがそこにいることに気付いた雪さんは、驚いて顔を上げ、じっとわたしを見詰めた。団扇を揺らす手が止まり、雪さんの笑顔がなぜか壊れた。  わたしの方も緊張し、顔を強張らせた。けれど逃げ出そうとは思わなかった。なぜなら雪さんはやさしそうな人に見えたし、その黒い瞳は幼女の如く汚れなく澄んでいたけれどその分悲しげで、何かに怯えているようでもあったから。わたしはそんな雪さんの目に吸い込まれるようで、じっと動けずにいた。  しばらく沈黙が続いた後、雪さんの方から口を開いた。 「にいさん、こっちおいで」  にいさん、て、わたしのことだろうか。こんな子どもなのに。わたしは訝った。  団扇を地面に置くと雪さんは笑顔を作り、空いた手でわたしを手招きした。しかしわたしは固まったように直立不動のまま、ただじっと雪さんの顔を見返すので精一杯だった。わたしの額から頬へと、大粒の汗が幾つも滴り落ちた。 「にいさん、そんなにおっかない顔しないで。こっち、いらっしゃいな。お菓子、あげるから」  おっかない。そんな顔、ぼく、してないよ……。  わたしは不服を抱きながらも、恐る恐る雪さんの方へと近付いていった。わたしの顔は強張ったままで、確かに怒ったように唇をぎゅっと真一文字に結んでいた。 「そうそ。こっち、いらっしゃいな。遠慮しなくて、いいから」  雪さんは接近するわたしを、厚化粧だけれどマシュマロのようなやわらかな表情で迎えた。わたしの背丈は、P箱に腰掛けた雪さんとちょうど同じで、ふたりの目線は同じ高さにあった。 「ちょっと待ってて、にいさん。お菓子、取って来るから。タロ吉のこと、見てて」  うん。  無言ながらわたしが小さく頷いたので、安心したように雪さんはパンドラの中に姿を消した。 「タロ吉なんて変な名前で、おまえ、嬉しいのかい」  雪さんが戻って来るまでの間、わたしはしゃがみ込んでタロ吉に問い掛けながら、相変わらず無我夢中で食事を続けるタロ吉の頭を撫でた。  雪さんは、直ぐに戻って来た。本当に両手一杯にお菓子を携えて。不二家のパラソルチョコ、明治のアポロ、同じく明治の苺の板チョコ、グリコのキャラメル、それに東ハトのオールレーズン。  うわあ、食べたい。  思わずわたしの頬は弛んだ。 「やっぱり、子どもね。これ全部あげるから、にんさん、おねえさんと仲良しになってね」 「うん」  深く考えもせず頷くと、わたしは雪さんが差し出すお菓子を無遠慮に全部受け取った。 「ありがとう」 「どういたしまして。溶けちゃうから、早く食べて」  促されわたしは、早速パラソルチョコをもぐもぐと頬張った。P箱に座り直した雪さんは、そんなわたしをじっと眺めた。さっきタロ吉を見ていたように。わたしは気恥ずかしくなって、頬を紅潮させた。 「ごめんね、にいさん。さっき、気安く呼んだりして。だってね……」  ため息混じりで、雪さんは続けた。 「だって、にいさん。似てたから」  今度はアポロを一粒ずつ口にしながら、わたしは聞くともなしに雪さんに耳を傾けていた。 「弟に、とっても似てたから、つい」 「弟に」  そこで初めて驚いたわたしは、食べるのを止め雪さんを見詰め返した。 「うん。太郎吉って、名前だったの」  たろきち……。  それでこいつの名前、タロ吉なのか。妙に納得しながら、わたしはタロ吉に視線を移した。 「名前だったのって……。まだ生きてるんだけど、わたしの太郎吉ちゃん。でもわたしがこんなとこ来ちゃったから、もう会えないから。ねえ、タロ吉」  雪さんはその青白い細い指で、再びタロ吉の頭を撫で回した。それはとても悲しい目をしながら。わたしは思わず、どきっとした。雪さんの笑顔が、翳りを帯びた大人の女の表情だったから。  こんなとこ来ちゃった、って……。  なぜ雪さんがこんな吉原になど来たのか、そしてなぜ弟さんともう会えないのか。その時のわたしに、分かる筈もなかった。 「にいさん。暑いわね、毎日」  雪さんはまたため息を零しながら、弱々しい手付きでゆっくりと団扇を扇いだ。  そうしているうちに、遂にタロ吉が餌を平らげた。雪さんはP箱から立ち上がると、タロ吉の前にしゃがみ込んだ。雪さんの白い下着がミニスカートから見え、わたしは心臓の鼓動をときめかせながらも、目のやり場に困惑した。すると雪さんは、嬉しそうに冷やかした。 「いやだ、にいさん。見ないで」  ぽっと頬を赤らめ、わたしは俯いた。 「タロ吉。良く食べたね、お利口さん。じゃ、また明日」  雪さんにしばしじゃれ付いた後、タロ吉は元気に駆け出すと、さっさと雪さんとわたしの前から姿を消した。  あーあ、行っちゃった。  ため息を吐いたわたしに、立ち上がりながら雪さんは寂しそうに告げた。 「にいさん。わたしももう、行かなきゃ仕事」  仕事……。夢から現実に引き戻されるに充分なひと言だった。寂しさが急に、わたしの胸に込み上げて来た。 「また来てね、にいさん」 「うん」  わたしは泣きそうな顔で答えた。そして手を振って、パンドラの中に消えてゆく雪さんの細い背中を見送った。  これが雪さんとわたしの、出会いの宵だった。近くの電信柱に留まったあぶら蝉が、相変わらず鳴いている熱帯夜だった。
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