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(二)冬
それは、今年吉原に初雪が舞い落ちた宵のことである。
その夜、パンドラの雪が相手をした客の一人に、渡辺という中年男がいた。渡辺は雪の待つ個室に入るや、品定めするように雪の体と顔をじろじろと目で舐め回した。それから如何にも診察鞄ふうの黒い鞄から、白衣と聴診器を取り出した。
「わたしはね、きみ。何を隠そう、東大医学部の教授なんだよ。今夜はきみを思う存分、診察して上げるから」
ごくっ……。
雪は生唾を飲み込み、身構えた。こういった客は大概、マニアックな変態プレイへと突入するからである。
東大の教授なんて、嘘に決まってる。ほんと、助平そうなおっさん……。
雪は作り笑いを浮かべながら、告げた。
「兎に角、お客さん。先に体、洗いましょう」
バスルームに入り、すっぽんぽんの渡辺の体を、自身の体を使って洗ってやる。先ずはこのままリップサービスで抜かせようとしたが、渡辺はじれったそうに拒んだ。
「いいから、いいから。さっさと、診察に移ろうじゃないか」
「はいはい、分かりました」
仕方なく頷くとバスルームを出て、雪は不安そうにベッドに腰を下ろした。すると渡辺は裸体の上からさっきの白衣をまとい、聴診器のイヤピースを耳に入れると、すぐさまチェストピースを雪の胸に押し当てて来た。
「いやん、冷たーい」
思わず雪はのけぞり、身悶えた。
「こらこら、我慢しなさい。これは神聖なる診察なのだから」
そう言う渡辺には、プライドすら感じられる。あら、本当にお医者さんなのかしら。
「はーい」
雪は陽気に答えた。
「患者のきみは、わたしの言う通りにしなきゃ駄目だよ」
「分かりました、せんせ」
渡辺の真剣な眼差しに、雪は笑いを噛み殺すばかり。
「いやん、くすぐったい。そこはだめ、先生」
胸、へそ、うなじ、背中、腰、太もも……。渡辺が雪の体の各部に、チェストピースを押し当てる度に、雪は身悶え、甘い声と息を漏らした。勿論演技であり、そうやって渡辺の興奮を誘っているのである。
「んん、もう我慢できん。いや、まだまだ。神聖なる診察を汚しちゃいかん、いかん」
などと戯言を垂れながらも、既に渡辺の目は血走り、呼吸はハーハー荒く、股間は硬くテントを張っていた。
卑猥な診察は進み、患者の足の裏まで診た後、渡辺はくんくんと雪の足の裏のにおいを嗅ぎ悦に浸った。
「よーし、OK。一通り診たが、特に悪いところはなさそうだ」
「ほんと、先生」
「ああ、きみは健康そのもの。まったく素晴らしい健康体だねえ。若いし、ナイスバディだし、ピチピチ活きもいい。それでいて時折見せる、あの翳りのある大人の女の表情がまた堪んない。わしゃもう限界、我慢できーーん」
「いいわよ、先生。遠慮せず、さ、横になって」
しかし渡辺はかぶりを振った。
「いやいや、まだ一番肝心なところが残っているんだよ」
「一番肝心なところ」
「さあ、もっとしっかり、足を広げて」
「いやん。ここも診ちゃうの」
嫌がる雪を押し倒し、渡辺が最後にチェストピースを押し当てたのは、雪の股間であった。
「おお、パイパンじゃないか、きみは」
「いやん、恥ずかしい」
雪は童顔である為、パンドラのオーナー西川節子、通称お節が、この子はロリータ路線でいったろかと、雪の陰毛を剃り落としてしまったのである。故にその手の趣味の常連客が、いつも雪を指名していた。
どきどき、どきどきっ……。
雪の股間の鼓動が、聴診器を通して渡辺の耳と下半身を直撃。
どきどき、どきどきっ……。
渡辺の興奮も遂に頂点に到達した。と思いきや、雪の股間をじっと見詰める渡辺の顔が、突如強張った。
「ん。きみ、このあざ……」
渡辺の性欲と股間の膨張はすっかり萎え、渡辺は雪の股間の或る一点を指差した。
「どうしたの、先生。なに、あざって」
「ほら、ここ。しかもふたつもあるじゃないか、きみ」
渡辺が指差しているのは雪の膣の右横であり、そこにはちょうど桜の花びら大の、しかも桜の花びらの形状をしたピンク色のあざがふたつ並んでいた。
「あ、それ。それはね、ふたつとも生まれつきあったの、先生」
「生まれつき」
ごくん。
渡辺は生唾を飲み込んだ。
「先生、そのあざがどうかしたの。いやだ、そんな深刻そうな顔しちゃって」
しかし渡辺は真剣な表情を崩さなかった。
「きみ、これはやばいかも知れないよ」
「えっ、やばい」
東大医学部の教授だなんて、鼻から信じちゃいないけれど、他人から改めて指摘されると、雪も急に不安になって来た。
「何がやばいんですか、先生。大丈夫でしょ、こんなの。だって子どもの時からずっとありましたけど、わたし今まで何ともなかったですよ」
しかし渡辺大先生は、首を縦には振らなかった。
「これはね、いや、間違いない。これは正しく、新種の梅毒だよ」
「梅毒。いやーーん、そんなの」
梅毒と言われちゃ、娼婦としては死刑宣告されたようなもの。雪は動揺し取り乱した。
「嘘、嘘。だって先生、わたしちゃんと二週間に一回、必ず検査受けてますよ。前回だって、何にも問題なしでしたし」
「普通の梅毒だったら、そりゃ検査では問題なしだろうね。でもわたしはさっき、新種の梅毒だと言ったよね」
「新種の梅毒」
「そうだよ」
然もありなんと渡辺は頷いた。
「きみの梅毒はね、実に厄介な代物で、今まで未発見だったのだよ。だから新種な訳」
「ええっ。ほんとですか、それ」
ただでさえ青白い雪の顔はまっ青。
「ああ、本当さ。だって発見したのは、何を隠そう、このわたしなのだから」
渡辺は得意そうに、胸を張って答えた。
「ええっ、先生が。なんか、嘘っぽい」
半信半疑の雪に、渡辺は声を荒らげた。
「なに、嘘だと。冗談じゃないよ、きみ。こっちは折角親切で教えて上げてんのに」
「あらま」
「信じないなら信じないで、わたしは一向に構わんのだよ。苦しむのは、きみ自身なんだからね」
「やだ、先生。そんなに怒んないで。信じてます、信じてますって。だからもっと詳しく教えて」
「よし、そんなに言うなら、教えて上げよう。この病気はね、今までの検査じゃまだ反応しないんだよ。だから幾ら検査したって無駄」
「そんなあ」
「だけどこの病気特有の症状を、わたしは遂に発見したのだ。まだ学会にもマスコミにも、発表してはおらんがね」
「うわーっ、凄い。先生」
そして大人しく雪は、渡辺の話に耳を傾けた。
「検査でも見付からないってことはね、治療法もまだないってことなんだよ。詰まり現在のところ、治る可能性はゼロ。もし感染したら、諦めるしかない」
「そんな」
「ちなみにわたしはこの病気のことを、あざの特徴から梅毒ではなく、桜の毒、詰まり桜毒(おうどく)と名付けた」
「桜毒」
「そうだ。でも喜びたまえ。わたしの研究によれば、桜毒はあざが三つ以上現れて初めて発症するものなのだ」
「三つ」
「きみはまだ、あざはふたつだ。詰まりセーフ」
「セーフ」
青ざめた雪の顔に、俄かに希望の光が射して来た。
「きみの場合、桜毒であることに間違いはないが、まだ潜伏期間ってやつだから大丈夫」
「潜伏期間ですか。それじゃあんまり嬉しくないんですけど、先生」
「でも発症するより、まだましだろ」
「そりゃ、そうですけど」
喜んでいいのか、悲しむべきか、落ち着かない雪。
「しかし油断は禁物。もしあざが三つ、詰まりきみの場合あとひとつ、出てきたら……」
「先生、どうなるんですか。黙り込んでないで教えて」
「では、教えて上げよう。桜毒が遂に発症し、きみは一年以内に発狂して死んでしまうだろう」
「ええっ……」
発狂して一年以内に死ぬですって。雪は思わず絶句し、顔面蒼白になった。
「先生、そんなのいや。わたしを助けて」
しかし渡辺は、かぶりを振るばかり。
「流石のわたしもこればっかりは、どうすることも出来んのだよ」
「そんな」
「でも桜毒と言っても、悪いことばかりではない」
「どこが」
「例えば桜毒っていうのはあくまでも先天性の病気だから、人には伝染しないのだよ」
「それの何処がいいんですか、先生」
呆れつつも、雪は仕方なく渡辺の相手を続けた。
「先生。絶対また来てね、お願い」
別れ際雪は渡辺に懇願し、その背中を見送った。しかしその後、渡辺が雪の前に現れることは二度となかった。
人には伝染しない……。渡辺の言葉を信じ、雪はその後も黙々と吉原での仕事を続けた。桜毒という大変な病気でありながら、それを誰かに相談することも出来ないまま。
雪は桜毒に怯え、三つ目のあざが出来ていないか、日に幾度となくチェックするようになった。すると病気は気から、というやつなのか、二週間もしないうちにとうとう三つ目のあざが、股間の左側に浮かんで来たのである。
ぎゃーーっ、嘘っ。
雪は絶句した。
どうしよう。これじゃわたし、一年以内に発狂して、死んでしまうんだわ……。
雪は奈落の底に突き落とされてしまった。しかし相談出来る相手などいる筈もない。オーナーのお節になど打ち明けようものなら、厄介払いで放り出されるか、或いは半殺しの目に遭わされるやも知れない。
ああ、どうしよう……。
雪はただひとり悩みを抱えたまま、売春稼業を続けるしかなかった。
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