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(三)冬2
「にいさん、よく来たね」
雪さんはわたしを見るなり、例の翳りのある笑顔で笑い掛けた。電信柱のはだか電球の光を通して、闇の中に映し出された雪さんの顔は、やはり痩せて青白かった。初雪を経た肌寒い真冬の中、雪さんの息もわたしのそれも、白く凍り付くようだった。
雪さんはパンドラの制服の上から紺のコートを羽織り、黄色いP箱に足を組んで腰を下ろしていた。小学生のわたしは、冬でも半ズボンで過ごしていた。雪さんの足元では例によってタロ吉が、雪さんの与えた餌を貪り食っていた。
タロ吉の前にしゃがんでタロ吉の様子を眺めながらも、わたしは雪さんのことばかり気にしていた。笑顔の中に見せるあの悲しげな雪さんの表情が、何とも言えずまだ子どものわたしの心を惹きつけてやまなかったのだ。
「にいさんも、座れば」
立ち上がると雪さんはパンドラの裏口の横に積んである空のP箱のひとつを取って、それを裏返し、自分が座っているP箱の隣りに置いた。
「うん」
言われるままわたしは、P箱に腰を下ろした。P箱の突起は、半ズボンからはみ出した足に痛かったけれど、わたしは我慢した。雪さんと並んで座り、ふたりしてタロ吉を眺めているのが嬉しかった。
「にいさんがいつ来てもいいように、ほら、いつもお菓子用意してあるのよ」
「ありがとう」
雪さんが手渡す紙袋を、丁寧にお辞儀してわたしは受け取った。中にはパラソルチョコ、グリコのキャラメルとオールレーズンが入っていた。
「にいさんのお家、ここから近いの」
「うん」
パラソルチョコを頬張りながら、わたしは頷いた。わたしの家に関して、雪さんが質問するのはこれが初めてだった。
「わたしの家と言うか田舎はね、とっても遠いの」
タロ吉の頭を撫でながら、雪さんの顔がまた悲しげに翳った。
「何処」
「えっ」
雪さんの澄んだ黒い瞳の中に、はだか電球の光が映っていた。
「おねえさんの田舎」
「うんとね……」
雪さんは表通りから漏れて来るネオンライトの目映さに目を移しながら、答えた。
「雪国」
「雪国」
「そ。冬は毎日、雪ばっかり降ってた」
「雪」
「うん。家が農家でね、とっても貧乏だったの」
農家で、貧乏……。わたしは頷きながら、雪さんの話に穏やかに耳を傾けていた。次の話が出るまでは。
「それで、この街に売られて来ちゃったの、わたし」
この街に売られて来た。どういうこと。
吃驚したわたしは、無言で雪さんを見詰めた。雪さんは恥ずかしそうに笑った。
「でも、もう五年前のことだから」
「五年前」
雪さんは頷きながら続けた。
「まだ高校生だったの、その時、わたし」
「高校生」
またも吃驚して、雪さんを見詰めずにはいられなかった。
「でもね。そのお陰で、一家心中せずに済んだのよ」
一家心中……。わたしの驚きは、大きな衝撃へと変わった。
「太郎吉もまだ小さかったし……。だからわたし、学校辞めてここに来たの。向こうを出発したのは、雪が降る寒い寒い朝だった」
わたしは何も言い返せなかった。ただ雪さんの顔に宿る翳り、悲しげなその表情の理由がやっと分かった気がした。
「だから雪を見るといつも、田舎のことを思い出すの。今頃みんなどうしてるかなあ、太郎吉は大きくなったかなあって。にいさんみたいに元気でお利口さんなら、いいんだけど」
わたしは恥ずかしくなって、顔をまっ赤にして俯いた。
「にいさん」
「なーに」
「どうしたの、下向いて」
「ううん、何でもない」
「ほんと。ならいいけど、ね、にいさん。それよっか」
雪さんは笑みを作りながら続けた。
「もし次の冬までわたしが生きてて、東京に雪が降ったら、一緒ににいさん、雪、見ようね」
次の冬までわたしが生きてて……。おねえさん、どうしてそんなこと言うんだろう。わたしは悲しくなって、じっと雪さんの顔を見詰めた。
「いい、にいさん」
「いいよ」
確かめる雪さんに、わたしは頷いた。
「じゃ、指切りしよう、にいさん」
「指切り」
うん。
無言で答えながら、雪さんは左手の小指を差し出した。わたしはどきどき、胸が高鳴った。と同時に頬を紅潮させた。躊躇うわたしに、雪さんは。
「おねえさんとじゃ、いや。やっぱり汚いから」
わたしは大きくかぶりを振った。
そんなんじゃないよ……。
わたしは慌てて、雪さんの小指にわたしの小指を絡ませた。
どきどき、どきどきっ……。
雪さんの指は冷たかった。そして女の人だからなのか、わたしの指の大きさと余りかわらなかった。
「指切りげんまん、嘘吐いたら、針千本のーます」
わたしの指をぎゅっと握り締めながら、雪さんは口遊んだ。わたしは興奮と照れ臭さから、声が出なかった。
「これで、よっし」
そう言うと、雪さんは小指を離した。小指を通して伝わって来た雪さんの鼓動もまた、途絶えた。わたしの小指は恋人を失くした孤独人のように、途方に暮れた。
「じゃね、タロ吉。また来てね」
いつか食事を終えていたタロ吉は、わたしを置き去りにさっさと何処かへ行ってしまった。雪さんと、ふたりきりになった。
「おねえさん」
わたしは、どうしても確かめたかった。さっき、雪さんが言ったことを。
「なに、にいさん」
「おねえさん、何か病気なの」
えっ。
雪さんは吃驚した顔で、わたしを見返した。
「どうして分かったの、にいさん」
「だってさっき言ったでしょ、おねえさん。もし次の冬までわたしが生きて、って」
「ああ」
雪さんは納得した顔で、わたしを見詰めた。
「ごめんね。にいさんを心配させちゃって」
ううん。
わたしはかぶりを振った。
「でも嬉しい。にいさん、ありがとう。やっぱりにいさんって、やさしい人なのね」
やさしい人……。
再びわたしは頬をまっ赤にし、更に強くかぶりを振った。
「わたしのことなんか心配してくれるの、にいさんだけよ。ほんと、ありがとう」
雪さんはわたしの手をぎゅっと握り締めながら、言った。
どきどき、どきどきっ……。わたしの鼓動はいたずらに高鳴った。
「ほんとうなら接吻したい位だけど、にいさんには、汚いから、ね」
雪さんは悲しげな眼差しをわたしに向けながら、頷いた。
接吻、汚い……。どきどき、どきどきっ……。ときめきの中にいるわたしの手を、そして雪さんはそっと離した。
「実はね、にいさん」
「うん」
「わたし、厄介な病気なのよ」
「やっかいな病気」
「でも心配しないで。にいさんには、うつらないから」
うつらない、でもやっかいな病気って、何だろう……。わたしはあれこれ、乏しい知識の中から思い浮かべた。
「にいさんになんかうつしたら、罰、当たっちゃう」
ふふふ……。雪さんの笑みはやっぱり悲しげだった。
「わたしね。その病気のせいで、次の冬まで生きられるかどうか、分かんないんだって。とっても偉い、お医者さんの先生が言ってたわ」
えっ、次の冬まで生きられるか、分かんない……。突然わたしは、目の前がまっ暗になった。
「そんな、悲しそうな顔しないで。にいさん」
うん。わたしは泣きそうな顔で頷いた。次の冬まで何ヶ月あるのか、急いでわたしは指を数えた。あと、一年足らず……。
「あっ、時間だわ。ごめんね、にいさん。もう店、戻らなきゃ」
突然雪さんが慌てて言った。
「それじゃね、にいさん」
「うん」
さっさとパンドラの中へ消えてゆく、雪さんの後姿を見送った。次の冬まで生きられるかどうかも分からない身でありながら、せっせと吉原で働かねばならない雪さんの境遇が、子どもながらに不憫でならなかった。
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