(四)桜

1/1
前へ
/21ページ
次へ

(四)桜

 雪は相変わらず桜毒に怯え、日々発狂と死の恐怖に苛まれながらも、健気に吉原の勤めをこなしていた。  霜雪に替わって桜の花が咲き出す頃、そんな雪の前に自らを天文学者と名乗る、河野という客が現れた。 「いらっしゃいませ」  個室の床に正座し三つ指ついて、雪はいつものように客を迎える。見れば河野は四十代後半辺り。平凡なサラリーマン風のさえないグレーの背広を着ていた。  ミニスカートから覗く雪の下着、はたまた雪の童顔と舌足らずな甘たるい声に、河野はすぐさま欲望を掻き立てられた。 「うわあ、タイプだわ、きみ。すっごくいいよ」 「そんな。お客さん、上手ね」  しかしこの男には性欲を満たすことの他に、吉原を訪れる別の目的があった。 「いやむしろ、そっちの方がメインかな」 「ほんと。で、どんなこと」 「うん。ぼくがわざわざ華のお江戸の遊郭の地、この吉原に足を運ぶ、その訳は」 「その訳は」  真剣な眼差しで答えを待つ雪に、河野も真顔で答えた。 「いつかここに宇宙船、所謂UFO、未確認飛行物体が着陸するんじゃないかと、ぼくは常々予想しているんだよ」  宇宙船……。  雪は呆れ顔で、河野を見詰めた。  この人、大丈夫かしら。  けれど吹き出したいのを堪えながら、雪は尋ねた。 「どうして、そんなふうに思うの、先生」  すると待ってましたとばかりに、河野が続けた。 「それはだね。この吉原は、ネオンがチカチカと眩しいじゃないか。ねえ、きみ」 「はい」 「そのまばゆい吉原のネオンの海をだね、例えば地球外から眺めると」 「眺めると」 「あたかも、それは……銀河系太陽系に於ける第三惑星即ち我等が地球の、宇宙ステーションの如くに見えるのだよ」 「宇宙ステーションですって。あらまあ、先生、素敵」  流石。もしかしてこのお客さん、本当に天文学者だったりして。  少年のように瞳を輝かせながら熱く語る河野の話に、雪はすっかり魅了された。一方河野の方も、雪に好感を持った。  なんて、純粋な娼婦なのだろう。こんな子がこんな場所で働いているなんて、世の中狂ってる。 「であるからして、そのうちにプレアデス星団の、プレアデスっていうのは高度な文明を持つ星団なんだけど、そこの宇宙船が勘違いして、この吉原に着陸する可能性が大きいのだよ」 「プレア……」 「プレアデス星団。おうし座、別名スバル、知ってるかい」 「うん。おうし座なら、聞いたことある」 「そこに属しているんだよ」 「へえ。そんな遠い星から、宇宙船がこんなとこに」 「ああ、そうだよ」 「ほんと、先生」 「ああ、ほんとさ。だからぼくは恥を忍んで、この街に何度も足を運んでいるのさ」 「まあ、そうだったの。ほんとに素敵なお話ね、先生」  うっとりする雪に、ますます好感度アップの河野先生。  やっぱり純粋な娘だなあ、この子。 「きみは信じてくれるのかね、ぼくの話を」 「勿論よ、先生。わたし、星とか宇宙とか、そんな話だーい好き」 「ぼくもきみのこと、だーい好き」  お互い、熱い眼差しで見詰め合うふたり。 「さあ先生、お体、洗いましょう」 「うん」  こうしてプレイの間中もふたりは意気投合し、宇宙船の話で盛り上がるのだった。 「でもどうして吉原なの、先生」 「と言うと」 「だって、ネオンが眩しい所なんて、世界中いっぱいあるでしょ。わたしはまだ行った事ないけど、東京でも新宿とか渋谷とか六本木とか」 「そうだね。でも、どうしてもこの吉原の、ネオンの海でなきゃ、だめなんだ」  河野をベッドに寝かせながら、問いを続ける雪。 「なぜ」 「それはね、この吉原の街っていうのが、この地球上、いやこの大宇宙の中でも、最も汚れた罪深い街だから、なんだよ」 「罪深い街」 「或いは宇宙で一番哀しい場所」 「宇宙で一番悲しい場所。確かに、そうかもね、先生。なんだかわたし、分かる気がする。だって……わたしも毎日悲しい」 「そうか。かなしいって言っても、哀愁の方の哀しい、なんだけどね」 「哀愁の方の。あら、そうだったの。ごめんなさい」  話が一段落して、雪は河野にサービスを開始する。 「先生、先ずお口でする」 「うん」  ベッドで横になった河野の股間に、唇を近付ける雪。 「ほら、こうやってきみとぼく、本来なら肉体関係なんて持つ筈のない男女が、たかが金銭のやり取りだけで、いとも簡単に交わってしまう……。ね、吉原って、本当に罪深い街だろ」 「確かにそうね、先生」 「そんな罪深く哀愁に満ちた吉原のネオンの海だからこそ、プレアデスの宇宙船は丸で吸い寄せられるように、着陸する筈なんだよ」 「でも、先生。どうして罪深い吉原だと、プレアデスの宇宙船が来るの」 「ん、それはね。プレアデス星団のこの宇宙に於ける使命を考えれば、頷けることなんだよ」 「プレアデス星団の使命。なんですか、それ。そんなもん、あんの」 「あるある。その使命に従って、遥か遠いこの吉原にまでやって来るんだよ」 「だーから、その使命ってなーに」  答えをせっつく雪に、河野は焦らしながら答えた。 「プレアデス星団に住む宇宙人たちの使命、それは……」 「なに、なによ、先生」 「宇宙の浄化」 「宇宙の、じょうか」 「そ」 「何、じょうか、って」 「えっ」  互いにぽかーんと口を開け、相手の顔を見詰める雪と河野。セブンスターに火を点け、河野は美味そうに煙を吐き出しながら答えた。 「浄化。詰まり、罪穢れを取り除き、綺麗に清めるってことさ」 「へえ。プレアデスの人たちって、偉いのね」 「ま、地球人よりは綺麗好きかもね」 「綺麗好きねえ」 「だからわざわざ自分たちの宇宙船を使って、この宇宙を探検し、罪穢れの多い場所を発見したら、そこをお掃除するって訳」 「へえ、やっぱり偉ーい」 「ま、プレアデスのキャプテンウルトラってとこかな」 「キャプテンウルトラ」 「だからこの吉原なんか、やばいだろ」 「うん、やばーい。でも先生、こんな街、綺麗に出来るのかしら。だってヤクザと売春婦の街よ、ここ」  雪の言葉に頷きながら、河野は次のセブンスターに火を点けた。 「確かに地球人の発想じゃ無理かもね。でも相手は高度な文明を有するプレアデスだから。でなきゃ、地球まで宇宙船なんか飛ばせないって」 「宇宙船ねえ」 「その高度な文明の利器を使って、パパパッとやっちゃうんじゃない」 「パパパッと。ねえ先生、高度な文明って例えば、宇宙船以外にどんなものがあるの」 「例えば、そうだなあ……」  腕を組み、河野はしばし考え込んだ。 「例えばさ、医学なんか滅茶苦茶進歩してると思うよ」 「医学」 「そ。地球じゃ絶対治せないような、どんな難病でも、簡単に治せんじゃない」  どんな難病でも、簡単にって。じゃもしかして、わたしの桜毒も……。 「先生。それ、ほんとですか」  真剣な眼差しでじっと自分を見詰める雪に、河野は頷いた。 「勿論さ」  その瞬間、いつもは暗く哀しげな雪の瞳の中に、キラキラとスバルが輝き、希望の光が満ち溢れた。耳にはドボルザークの新世界交響楽が聴こえていて、それは決して空耳などではなかった。  オーナーのお節がクラシック音楽のファンということもあり、ここパンドラでは店内にクラシック音楽を流していた。ベートーベン、ショパン、マーラー、ラフマニノフ、そしてドボルザーク……。  お節は関西出身で既に還暦を過ぎていたが、まだまだ元気。流石に現役は引退したが、若い頃は自ら泡姫としてせっせと働き金を貯め、遂にパンドラをオープンさせた苦労人。かといって情に厚い訳ではなく、狡賢く金にシビアな守銭奴、意地悪ばあさんというのがお節の評判である。  雪は、ドボルザークの新世界交響楽が一番好きだった。田舎の小学校で放課後いつも流れていた曲であり、聴いているとついつい郷愁に襲われてしまうから。空を焦がす夕焼け、その色に染まった哀愁を帯びた黄昏の教室……。そして雪はいつも、太郎吉と交わした最後の会話を思い出すのだった。 「明日、ねえちゃん、何処行くんだ」 「東京」 「そんなとこ、ひとりで何しに行くんだ」 「歌手になる為よ。有名になったら、一杯仕送りするからね」 「すごいな。ねえちゃん、歌上手いから」  無邪気に笑う太郎吉のまっ赤な頬っぺたに、夕焼けの色が滲んでいた。 「雪ちゃん」  河野の声に我に返る雪。 「先生、わたし行ってみたい、プレアデス星団に。早く宇宙船、来ないかしら」 「そうだね。ぼくも待ち遠しいよ、まったく。あそこはね」 「うん」 「文明だけじゃなくて、住んでる宇宙人たちのモラルも高度なんだよ」 「モラルも高度」 「うん。純粋で汚れがなくて、正義感旺盛で不正を憎み、常にプラス思考」 「あら、凄ーい。ますます行ってみたくなっちゃった、わたし」 「いいんじゃないの、行ってくれば。もしも自分たちと同じ位ピュアな地球人がいたら、喜んで招待してくれるかもよ」 「ピュアな地球人かあ……。じゃ、わたしなんか無理じゃない」  落胆する雪を、河野は励ました。 「そんなことはないよ。たとえ体は汚れていても、心、魂がピュアなら大丈夫」 「心、魂が……。分かったわ、わたしも頑張って、ピュアな地球人になんなきゃ」  固く心に誓う雪だった。  こうして雪は相変わらず桜毒の恐怖に怯えながらも、いつかプレアデスの宇宙船が自分を助けに、ドボルザークの新世界交響楽流れるこのパンドラに来てくれる日を、夢見るようになった。  また雪をすっかり気に入った河野は以後他の店には行かず、月に一回常連客として必ず雪の許に、足を運ぶようになったのである。
/21ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加