1人が本棚に入れています
本棚に追加
(四)桜
雪は相変わらず桜毒に怯え、日々発狂と死の恐怖に苛まれながらも、健気に吉原の勤めをこなしていた。
霜雪に替わって桜の花が咲き出す頃、そんな雪の前に自らを天文学者と名乗る、河野という客が現れた。
「いらっしゃいませ」
個室の床に正座し三つ指ついて、雪はいつものように客を迎える。見れば河野は四十代後半辺り。平凡なサラリーマン風のさえないグレーの背広を着ていた。
ミニスカートから覗く雪の下着、はたまた雪の童顔と舌足らずな甘たるい声に、河野はすぐさま欲望を掻き立てられた。
「うわあ、タイプだわ、きみ。すっごくいいよ」
「そんな。お客さん、上手ね」
しかしこの男には性欲を満たすことの他に、吉原を訪れる別の目的があった。
「いやむしろ、そっちの方がメインかな」
「ほんと。で、どんなこと」
「うん。ぼくがわざわざ華のお江戸の遊郭の地、この吉原に足を運ぶ、その訳は」
「その訳は」
真剣な眼差しで答えを待つ雪に、河野も真顔で答えた。
「いつかここに宇宙船、所謂UFO、未確認飛行物体が着陸するんじゃないかと、ぼくは常々予想しているんだよ」
宇宙船……。
雪は呆れ顔で、河野を見詰めた。
この人、大丈夫かしら。
けれど吹き出したいのを堪えながら、雪は尋ねた。
「どうして、そんなふうに思うの、先生」
すると待ってましたとばかりに、河野が続けた。
「それはだね。この吉原は、ネオンがチカチカと眩しいじゃないか。ねえ、きみ」
「はい」
「そのまばゆい吉原のネオンの海をだね、例えば地球外から眺めると」
「眺めると」
「あたかも、それは……銀河系太陽系に於ける第三惑星即ち我等が地球の、宇宙ステーションの如くに見えるのだよ」
「宇宙ステーションですって。あらまあ、先生、素敵」
流石。もしかしてこのお客さん、本当に天文学者だったりして。
少年のように瞳を輝かせながら熱く語る河野の話に、雪はすっかり魅了された。一方河野の方も、雪に好感を持った。
なんて、純粋な娼婦なのだろう。こんな子がこんな場所で働いているなんて、世の中狂ってる。
「であるからして、そのうちにプレアデス星団の、プレアデスっていうのは高度な文明を持つ星団なんだけど、そこの宇宙船が勘違いして、この吉原に着陸する可能性が大きいのだよ」
「プレア……」
「プレアデス星団。おうし座、別名スバル、知ってるかい」
「うん。おうし座なら、聞いたことある」
「そこに属しているんだよ」
「へえ。そんな遠い星から、宇宙船がこんなとこに」
「ああ、そうだよ」
「ほんと、先生」
「ああ、ほんとさ。だからぼくは恥を忍んで、この街に何度も足を運んでいるのさ」
「まあ、そうだったの。ほんとに素敵なお話ね、先生」
うっとりする雪に、ますます好感度アップの河野先生。
やっぱり純粋な娘だなあ、この子。
「きみは信じてくれるのかね、ぼくの話を」
「勿論よ、先生。わたし、星とか宇宙とか、そんな話だーい好き」
「ぼくもきみのこと、だーい好き」
お互い、熱い眼差しで見詰め合うふたり。
「さあ先生、お体、洗いましょう」
「うん」
こうしてプレイの間中もふたりは意気投合し、宇宙船の話で盛り上がるのだった。
「でもどうして吉原なの、先生」
「と言うと」
「だって、ネオンが眩しい所なんて、世界中いっぱいあるでしょ。わたしはまだ行った事ないけど、東京でも新宿とか渋谷とか六本木とか」
「そうだね。でも、どうしてもこの吉原の、ネオンの海でなきゃ、だめなんだ」
河野をベッドに寝かせながら、問いを続ける雪。
「なぜ」
「それはね、この吉原の街っていうのが、この地球上、いやこの大宇宙の中でも、最も汚れた罪深い街だから、なんだよ」
「罪深い街」
「或いは宇宙で一番哀しい場所」
「宇宙で一番悲しい場所。確かに、そうかもね、先生。なんだかわたし、分かる気がする。だって……わたしも毎日悲しい」
「そうか。かなしいって言っても、哀愁の方の哀しい、なんだけどね」
「哀愁の方の。あら、そうだったの。ごめんなさい」
話が一段落して、雪は河野にサービスを開始する。
「先生、先ずお口でする」
「うん」
ベッドで横になった河野の股間に、唇を近付ける雪。
「ほら、こうやってきみとぼく、本来なら肉体関係なんて持つ筈のない男女が、たかが金銭のやり取りだけで、いとも簡単に交わってしまう……。ね、吉原って、本当に罪深い街だろ」
「確かにそうね、先生」
「そんな罪深く哀愁に満ちた吉原のネオンの海だからこそ、プレアデスの宇宙船は丸で吸い寄せられるように、着陸する筈なんだよ」
「でも、先生。どうして罪深い吉原だと、プレアデスの宇宙船が来るの」
「ん、それはね。プレアデス星団のこの宇宙に於ける使命を考えれば、頷けることなんだよ」
「プレアデス星団の使命。なんですか、それ。そんなもん、あんの」
「あるある。その使命に従って、遥か遠いこの吉原にまでやって来るんだよ」
「だーから、その使命ってなーに」
答えをせっつく雪に、河野は焦らしながら答えた。
「プレアデス星団に住む宇宙人たちの使命、それは……」
「なに、なによ、先生」
「宇宙の浄化」
「宇宙の、じょうか」
「そ」
「何、じょうか、って」
「えっ」
互いにぽかーんと口を開け、相手の顔を見詰める雪と河野。セブンスターに火を点け、河野は美味そうに煙を吐き出しながら答えた。
「浄化。詰まり、罪穢れを取り除き、綺麗に清めるってことさ」
「へえ。プレアデスの人たちって、偉いのね」
「ま、地球人よりは綺麗好きかもね」
「綺麗好きねえ」
「だからわざわざ自分たちの宇宙船を使って、この宇宙を探検し、罪穢れの多い場所を発見したら、そこをお掃除するって訳」
「へえ、やっぱり偉ーい」
「ま、プレアデスのキャプテンウルトラってとこかな」
「キャプテンウルトラ」
「だからこの吉原なんか、やばいだろ」
「うん、やばーい。でも先生、こんな街、綺麗に出来るのかしら。だってヤクザと売春婦の街よ、ここ」
雪の言葉に頷きながら、河野は次のセブンスターに火を点けた。
「確かに地球人の発想じゃ無理かもね。でも相手は高度な文明を有するプレアデスだから。でなきゃ、地球まで宇宙船なんか飛ばせないって」
「宇宙船ねえ」
「その高度な文明の利器を使って、パパパッとやっちゃうんじゃない」
「パパパッと。ねえ先生、高度な文明って例えば、宇宙船以外にどんなものがあるの」
「例えば、そうだなあ……」
腕を組み、河野はしばし考え込んだ。
「例えばさ、医学なんか滅茶苦茶進歩してると思うよ」
「医学」
「そ。地球じゃ絶対治せないような、どんな難病でも、簡単に治せんじゃない」
どんな難病でも、簡単にって。じゃもしかして、わたしの桜毒も……。
「先生。それ、ほんとですか」
真剣な眼差しでじっと自分を見詰める雪に、河野は頷いた。
「勿論さ」
その瞬間、いつもは暗く哀しげな雪の瞳の中に、キラキラとスバルが輝き、希望の光が満ち溢れた。耳にはドボルザークの新世界交響楽が聴こえていて、それは決して空耳などではなかった。
オーナーのお節がクラシック音楽のファンということもあり、ここパンドラでは店内にクラシック音楽を流していた。ベートーベン、ショパン、マーラー、ラフマニノフ、そしてドボルザーク……。
お節は関西出身で既に還暦を過ぎていたが、まだまだ元気。流石に現役は引退したが、若い頃は自ら泡姫としてせっせと働き金を貯め、遂にパンドラをオープンさせた苦労人。かといって情に厚い訳ではなく、狡賢く金にシビアな守銭奴、意地悪ばあさんというのがお節の評判である。
雪は、ドボルザークの新世界交響楽が一番好きだった。田舎の小学校で放課後いつも流れていた曲であり、聴いているとついつい郷愁に襲われてしまうから。空を焦がす夕焼け、その色に染まった哀愁を帯びた黄昏の教室……。そして雪はいつも、太郎吉と交わした最後の会話を思い出すのだった。
「明日、ねえちゃん、何処行くんだ」
「東京」
「そんなとこ、ひとりで何しに行くんだ」
「歌手になる為よ。有名になったら、一杯仕送りするからね」
「すごいな。ねえちゃん、歌上手いから」
無邪気に笑う太郎吉のまっ赤な頬っぺたに、夕焼けの色が滲んでいた。
「雪ちゃん」
河野の声に我に返る雪。
「先生、わたし行ってみたい、プレアデス星団に。早く宇宙船、来ないかしら」
「そうだね。ぼくも待ち遠しいよ、まったく。あそこはね」
「うん」
「文明だけじゃなくて、住んでる宇宙人たちのモラルも高度なんだよ」
「モラルも高度」
「うん。純粋で汚れがなくて、正義感旺盛で不正を憎み、常にプラス思考」
「あら、凄ーい。ますます行ってみたくなっちゃった、わたし」
「いいんじゃないの、行ってくれば。もしも自分たちと同じ位ピュアな地球人がいたら、喜んで招待してくれるかもよ」
「ピュアな地球人かあ……。じゃ、わたしなんか無理じゃない」
落胆する雪を、河野は励ました。
「そんなことはないよ。たとえ体は汚れていても、心、魂がピュアなら大丈夫」
「心、魂が……。分かったわ、わたしも頑張って、ピュアな地球人になんなきゃ」
固く心に誓う雪だった。
こうして雪は相変わらず桜毒の恐怖に怯えながらも、いつかプレアデスの宇宙船が自分を助けに、ドボルザークの新世界交響楽流れるこのパンドラに来てくれる日を、夢見るようになった。
また雪をすっかり気に入った河野は以後他の店には行かず、月に一回常連客として必ず雪の許に、足を運ぶようになったのである。
最初のコメントを投稿しよう!