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(五)桜2
桜散る夕暮れ時、吉原のネオンは既にチカチカと妖しき光を放っていた。
雪さんは、そんなネオンライトの明滅の遥か上空の彼方に目を向け、ぽつぽつと瞬き始めた星明かりを眺めていた。星空の中に何かを探すように。
それが何かは、直ぐに分かった。
「にいさん、おうし座って知ってる」
「うん」
星占いで名前だけは聞いた覚えがあったので、わたしは頷いた。
「夏は見えないんだって、おうし座」
「へえ」
「おうし座の中にね、にいさん。プレアデス星団っていうのがあるんだって」
「プレアデス星団」
「うん」
餌を貪るタロ吉へと視線を落とし、雪さんはタロ吉の頭を撫でた。
「プレアデス星団が見たいんだけど、わたし。早く見たいなあ」
雪さんは寂しげにため息を零した。
「にいさん。遠慮せず、お菓子食べて、食べて」
わたしは言われるまま雪さんからいつものように貰った紙袋の中から、パラソルチョコを取り出すと、外袋のビニールと紙を剥いで、チョコを頬張った。
「ねえ、にいさん。宇宙船って信じる」
雪さんはまた唐突に、わたしに聞いた。
「宇宙船」
そう言われて咄嗟にわたしは、キャプテンウルトラのシュピーゲル号を思い浮かべた。当時日曜日の午後七時、TBSで放映していた。
そういえば雪さんって、キャプテンウルトラのアカネ隊員に何処か似てる、アカネ隊員の制服を雪さんに重ね合わせながら、わたしはそう思った。雪さんがアカネ隊員ならいいのになあ、憧れのアカネ隊員……。
「なんでもね、この街のネオンライトを宇宙ステーションと間違えて、プレアデスの宇宙船がここに着陸するかも知れないんだって」
「宇宙船が。凄い」
宇宙ステーションと聞いて、わたしは矢張りキャプテンウルトラの宇宙ステーションであるシルバースターを思い描いた。
「おねえさんは宇宙船、信じてるの」
問い返したわたしに、雪さんはそれは嬉しそうに答えた。
「うん。わたし、信じてるわ、にいさん。冬が来る前にね、プレアデスの宇宙船がここにやって来るの。そして……」
雪さんは東京の星空を見上げながら、続けた。
「わたしをプレアデスの自分たちの星に、連れて行ってくれるのよ」
雪さんの瞳は、珍しくキラキラと明るく希望の光に満ち溢れていた。
「ぼくも行きたい」
雪さんは驚いて、じっとわたしを見詰めた。
「ほんと、にいさん」
うん。
わたしは黙って頷いた。
「いいわよ、にいさん。そうだ、タロ吉も一緒に、みんなで行こうか」
「うん」
わたしは嬉しくなって、タロ吉の頭を撫で回した。
「でもね、にいさん。その為にはピュアな地球人でなきゃ駄目なのよ」
「ピュアな地球人」
「そう。心が綺麗な人間ってこと」
「うん。ぼくがんばってみる」
さっきより夜の暗さが増して、瞬く星の数も増えた空を再び見上げた雪さんに釣られて、わたしも顔を空に向けた。今は見えないプレアデス星団の星々を捜すように。
そしてわたしは夢想した。アカネ隊員の雪さんとキャプテンウルトラのわたしがシュピーゲル号に乗って、プレアデス星団へと出発する姿を……。わたしは俄かに興奮を覚えた。
「おねえさん」
「なーに、にいさん」
「宇宙船、早く来ないかなあ」
「そうね。待ち遠しいわね」
「でも、おねえさん、恐くないの」
雪さんはかぶりを振った。
「にいさんとタロ吉が一緒だったら、なんにも恐くなんかないわよ」
「ほんと」
「うん、ほんと」
雪さんは頷いた。
「じゃぼくが宇宙の怪獣なんかやっつけて、おねえさんを守って上げる」
「うわあ、頼もしい。やっぱり男ね、にいさん」
男……。雪さんはわたしの手をぎゅっと握り締めた。男と言われ、わたしは興奮を覚えずにはいられなかった。けれど雪さんは、直ぐにわたしから手を離した。
「でもプレアデスは、地球より文明が進んでいるんだってよ。だから怪獣なんか、いないかも」
「そうなんだ」
「それに、どんな病気だって治せるかも知れないって」
ああ、そうか。それが雪さんの一番の望みなのだ。わたしは密かに思った。
「ねえ、にいさん。宇宙船が早く来てくれるように、夜空に向かって一緒にお祈りしない」
「お祈り」
「うん。こう言うの」
雪さんは静かにお祈りを唱え出した。
「家の灯り、町の灯り、駅の灯り、高層ビルの灯り、空港の灯り、都会の灯り、ふるさとの灯り、遠い宇宙の彼方の灯り。ここは吉原、ネオン瞬く宇宙ステーション。どうぞ、プレアデスの宇宙船、お腹空かしたタロ吉と、桜毒の雪を助けに来ておくれ」
おうどく……。それが、雪さんの病名なのだろうか。一体どんな病気なのだろう。わたしは考えずにはいられなかった。
「じゃ、またね。にいさん、タロ吉」
雪さんはそう言うと、パンドラの店へと帰って行った。次に会う時、宇宙船のお祈りを記したメモをくれるという、約束を残して。
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