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(六)皐月
桜の花はとうに散り、代わりに木々の若葉が萌え、街路には色とりどりのサツキが咲き誇る季節。
常連客となった自称天文学者の河野が、再び雪の許へやって来た。河野は今夜もまた、宇宙船について熱く語った。
「先生、プレアデスの宇宙船はまだ」
「うん。ちょっとまだ季節的に早いかなあ」
「じゃ、いつ頃だったら、来てくれそう」
「ん、まあ、夏かなあ」
「夏」
「八月の終わり頃」
八月の終わりかあ。それじゃ、あと四ヶ月。長いなあ……。宇宙船の着陸が、どうにも待ち遠しくてならない雪。
「でも先生。もし宇宙船がわたしを連れていってくれるとして、プレアデス星団の中の一体どの星に行くの」
「それはね、アルキオネって星さ」
「アルキオネ」
「その星こそがスバルの中で最も美しく、かつ最も高度な文明を有する星なんだよ」
「あーら、素敵」
そして河野はアルキオネについて、雪に熱く語った。
河野の次に雪が相手をした客は、地元東京下町に地盤を持つ衆議院議員の大物代議士、竹林健一郎だった。
パンドラの後ろ盾となっているのは、全国に名の知れた広域暴力団、稲藤会の関東支部であるが、竹林は昔から稲藤会と黒いつながりがあった。その関係で接待を受けて吉原でもよく遊んでおり、今回は雪が竹林の相手を仰せつかったという訳である。
「さあ、おまえ。俺を存分に楽しませろよ」
「はい、分かりました、先生」
「先生だと。違うだろ、ご主人様だよ」
「はい、すいません、ご主人様」
「そうだ。おまえはな、今夜一晩、俺の性奴隷なんだから、しっかりとご奉仕しろよ」
「はい、ご主人様」
何をされるのやらと、怯える雪。先ずはバスルームで、銀縁眼鏡以外竹林の身にまとったすべてを脱がした。テカテカと脂ぎった顔面、妊婦のようなお腹、肉食過多による加齢臭……。不快さを堪えつつ竹林の体を洗ってやり、ベッドルームへ移動。
「俺はな、もう普通の刺激じゃ満足しねんだよ」
「はい」
「アブノーマルってやつさ」
そして竹林持参のバッグから出て来たのはSMグッズ。鞭、ローソク、縄、マスク、極太のバイブ……。竹林はバイブを握り締めるや、スイッチを入れた。
ギィイーン。バイブのモーター音が個室に響き渡る。
「嫌。ご主人様、怖い」
「何を今更、小娘でもあるまいに」
嫌がる雪などお構いなし。竹林は雪の股間目掛け、ギィイーン、ギィイーンを挿入し玩んだ。続いて浣腸、鞭打ちの刑、縄で縛って逆さ吊り、乳房、股間へとローソクの蝋を垂らした。
「あつう、止めて……」
とうとう、雪は失神。
これでゲームオーバーかと思いきや、竹林の欲望はまだ終わらない。意識を失くしベッドに横たわる雪の首へと両手を伸ばし、竹林は絶叫した。
「死ねえ」
息苦しさで意識を取り戻した雪は、自分の首を絞める竹林の鬼の形相に吃驚仰天。
「ぐるじい…、止めでっ」
しかし手の力を緩める筈もないのは竹林。
「お目覚めかね。これは好都合。俺はな、死の恐怖におののく女の顔を見ないと勃起せんのだよ」
狂人、本当に変態だわ、こいつ。わたし、もう駄目かも……。
雪は力なく目を閉じた。
「よし、冥土の土産に、おまえにいいことを教えてやろう」
しかし竹林の戯言など、もう耳には入らない。
「この世界はな、九十九パーセントの経済奴隷と一パーセントのご主人様とで成り立っているのだ。わたしか。わたしもまた悲しいかな、奴隷のひとりに過ぎん」
意識朦朧とする中で、雪は死ぬ覚悟を決めた。
もう、このまま死んでもいい。だって……死んだら、楽になれるから。この地獄のような毎日、吉原から、売春から、みんな、さようなら出来るんだから……。良かった、わたし嬉しい……。
そう思うと、自然雪の顔には笑みが滲み出るのだった。
するとどうだ。それまで勃起していた竹林のそれは見る見る萎えて、紅潮していた顔もすっかり冷めてしまった。
「おまえは頭がいかれてんのか。そんなに殺されるのが嬉しいのか」
目を瞑ったまま雪は頷き、にこっと微笑んでみせた。
「なにーっ。おまえみたいなやつは初めてだ」
竹林はそして力なく、雪の首からその手を離した。
「あーあ、詰まんね」
すっかり白けた竹林は、パンドラからとっとと引き揚げて行った。
これで無事済んだかと思えば、雪にはお節のお仕置きが待っていた。自分の顔に泥を塗った雪が許せない。そこでお節は、三日間雪に食事を与えなかった。
竹林のプレイで受けた鞭の傷がまだ治まらない或る晩、雪は山田という客を相手した。山田は見た目は普通のおっさん、何処にもいる冴えない中年男だった。
「いらっしゃいませ」
雪の待つ個室に入って来た山田は、草臥れたグレーのスーツ姿。雪の三つ指に対して、蚊の鳴くような細い声で答えた。
「はい、いらっしゃいました。わたしみたいな客ですいません」
えっ。
雪は吃驚。そんなことを言われたのは、初めてのこと。見ると如何にも申し訳なさそうに、突っ立っている。
「先ずはお風呂に入りましょうか」
「はい」
素っ裸になった山田の体を洗ってやる。
「お仕事、大変ですか」
「いいえ」
かぶりを振りながら、山田は答えた。
「詰まらない事務の仕事ですから」
そんな。さっきから自分を卑下する山田に、雪は憐憫とまた親近感を覚えた。
「あなたこそ、大変でしょう」
「いいえ」
逆に聞いて来る山田に、雪もかぶりを振った。バスルームでのサービスが終わると、ふたりはベッドへ。
「本当はこういう場所に来るのは、あんまり良くないと分かっているんですけど。ついつい……女の人と縁がなくてね」
「そんなことないでしょ」
気休めでも良いから、雪は励まして上げたいと答えた。
「いえいえ。恥ずかしながら、五十過ぎて未だに独身です」
「独身貴族でいいじゃないですか」
「とんでもない。惨めなもんですよ、今まで一度として女の人とお付き合いした経験なんかありませんから。相手してくれるのは、風俗の女性だけです」
あらら……。
雪はため息。
「でも会社にも、女の人はいるんでしょ」
「いやあ、みんな高嶺の花ですよ。わたしなんて眼中にありませんから、見向きもしてくれません。まったく侘しい人生ですよ、一体何の為に生きているんだか、自分でも分かりません」
山田は暗い笑みを零した。釣られて雪も苦笑い。
「そんなこと言わないで、お客さん。こっちまで悲しくなっちゃう」
「ごめん、ごめん。あなたはまだ若いんだから、元気出して下さい」
作り笑いの山田に、雪はたっぷりサービスして上げようと誓う。自分にはこんなこと位しか出来ないから。
「さあ、お客さん。わたしを恋人だと思って、思い切り抱いて」
「ありがとう」
「キスしてもいいのよ」
「でも、唇は駄目なんじゃ」
「いいから、いいから。遠慮しないで」
「うん、分かった。じゃ、お言葉に甘えて……」
目を瞑り、山田は無我夢中で雪の唇を求めた。その唇は震えていて、更に雪を悲しくさせた。
それからプレイの間中、雪は大袈裟な演技で感じた振りをして山田を興奮させ、また喜ばせた。
事が終わり、ふたりは並んでベッドに座った。
「ありがとう、本当にきみはやさしい子だね。女の子にこんなにやさしくしてもらったのは、生まれて初めてだよ」
「ほんと、嬉しい」
それから山田は躊躇いがちに切り出した。
「雪ちゃん」
「どうしたの、急に改まって」
「うん。もし良かったら……」
「もし良かったら、なーに」
「わたしと結婚して、くれませんか」
「えっ」
余りに唐突なプロポーズに雪は戸惑った。しかし冗談とも思えない。雪は山田をじっと見詰め返した。
「でもわたし、売春婦なのよ」
「そんなこと、ちっとも構わないよ」
山田の真剣な眼差しに、雪は黙り込んだ。
「やっぱり駄目だよね、わたしなんか……」
雪はかぶりを振った。
「そんなんじゃなくて。実は、実はね、山田さん」
「うん」
「わたし、この店に借金があるの」
こんなことを客に言うのは、初めてのことだった。すると。
「幾らですか」
山田は真剣に尋ねて来た。
「えっ」
幾らって……。そんなこと聞いて、どうするの。しかし山田は続けた。
「自慢じゃないけど、貯金だけは一杯あるから」
「えっ、ほんとですか」
「うん」
山田はやさしく笑みを浮かべた。
もしかして、この人。借金を立て替えてくれる積もりなのかしら。それって、身請け……。ゴクンっと生唾を飲み込む雪。
もしそうなら、この店からわたし、自由になれるかも知れない。雪の心は激しく揺れ動いた。
もしもそうなれるのなら、わたし、この人と結婚してもいい……。
「山田さん」
「なーに」
やさしく笑みを浮かべる山田に、しかし雪は躊躇。そして……やっぱり駄目よ。雪は大きくかぶりを振った。
だって桜毒。わたし、直ぐに死んじゃうんだから。こんないい人、とても騙せない。
「ありがとう。でもやっぱり駄目。ごめんね、山田さん」
雪は泣く泣く山田のプロポーズを断った。
「いいんだよ、気にしないで。駄目元で言ってみただけだから」
山田は健気に笑ってみせるばかり。
「じゃ、そろそろ帰ります。本当に素敵な一夜でした。ありがとう、雪さん」
「そんな。こっちこそ、ありがとうございました。山田さん、また来てね」
「ええ、勿論ですよ。元気でね、じゃさようなら」
にこやかに手を振って雪の前から去って行った山田だったが、以後彼がパンドラに来ることはなかった。
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