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(七)皐月2
妖しきネオン瞬く吉原の夜空には珍しく、月が煌々と輝いていた。月の光は清らかで、それは長年月を掛けて吉原に蓄積されたであろう罪穢を払うかのように、花柳の街を照らしていた。
餌を貪るタロ吉をしゃがみ込んで眺めるわたしに、雪さんは一枚のメモ切れを手渡した。
「にいさん、ほら。宇宙船のお祈り」
「あっ、ありがとう」
わたしは立ち上がり、直ぐにそれを暗唱した。
「家の灯り、町の灯り、駅の灯り、高層ビルの灯り……桜毒の雪を助けに来ておくれ」
桜毒。おうどく、とはこんな漢字なのか。
如何にも怖そうな病名に、わたしは身震いを覚えた。白いメモ用紙に書かれた鉛筆の、細く神経質そうな雪さんの文字を眺めながら、どうにかしてこの人を助けてあげたい、とわたしは祈らずにはおれなかった。もしも宇宙船が本当に雪さんを救ってくれるのなら、一日も早くここに来て欲しいと。
わたしの声に合わせて自らが編み出した祈りの言葉を唱える雪さんの横で、けれど小学生のわたしですら、すべて夢物語に過ぎないのだと分かっていた。プレアデスの宇宙船が存在していて、それがここ吉原に着陸し、雪さんを助けてくれるなど……。
「お月さん、綺麗ね」
「うん」
月に向かって真剣に祈る雪さんの姿は、子ども心にも痛々しく不憫でならなかった。
「宇宙船ね」
「うん」
「八月の終わり頃には来るんじゃないかって、先生が」
「八月の終わり、すごーい」
「ね、もう直ぐよ。楽しみね、にいさん」
「うん」
八月の……、晩夏、夏の終わり。指折り数えて、あと四ヶ月弱。
まさか……。ため息混じりで月を見るわたしに、雪さんは続けた。
「アルキオネ」
「なーに、おねえさん」
「わたしたちが行く、プレアデス星団の中の星の名前よ、にいさん」
「アル、キオネ」
「そう」
「その星が、プレアデスの中でも一番高度な文明の星なんだって」
アルキオネ、アルキオネ、アルキオネ……。
わたしはその星の名を、呪文のように心の中で幾度も唱え続けた。そこが吉原など存在しない、桃源郷であることを祈るように。売春もなく、貧乏もなく、病気もまた存在しない世界であるならば、と。
ああ、しかしすべては矢張り夢物語に過ぎない。宇宙船、宇宙ステーション、宇宙旅行など、キャプテンウルトラの特撮の世界でしかないのだ。そしてTV放送が終わったら、キャプテンウルトラも、アカネ隊員も、みんなこの地球に生きる生身の人間に戻り、それぞれの悲しみや苦悩と向き合いながら生きてゆくしかないのだ。この星の上で、精一杯、懸命に生きてゆくより他に術はなし。
地球とアルキオネ……、あれっ。
でも、おねえさん。
口にしようとして、わたしは止めた。雪さんをがっかりさせたくなくて。でも考えたら、やっぱり無理がある。だってわたしたち地球人がこの地球以外の、プレアデス星団のアルキオネなどという星の上で、生きてゆける筈はないのだから。
大気、水、食物、温度、気候……。それともアルキオネとは、そこまでカバーしてくれる程文明が進んでいるのだろうか。
そんなことを想いながら、餌を食べ終え満足気に駆け出すタロ吉を、雪さんとふたりで見送った。
いつか吉原の空を重たい雲が覆い、月が隠れてしまった。しかしこの街が夜の闇に沈むことはない。それこそ宇宙ステーションのような眩しいネオンライトが、妖しく照らし続ける。今宵も女を求めて何処からともなく男たちが集まり、お金と引き換えに、わたしの大事な雪さんも行きずりの男に玩ばれるのだ。
だから、夢見ずにはいられない。たとえ夢物語だと分かっていても、宇宙船、アルキオネを。雪さんとふたりで、待たずにはいられない。雪さんの救済を、雪さんが普通の女の人として生きられる世界の到来を。
「にいさん、どうしたの」
「えっ」
雪さんが心配そうに、わたしの横顔を見詰めていた。
「さっきから、深刻そうな顔してるから。にいさん、何か悩みでもあるの」
ううん。わたしは大きくかぶりを振った。
違うよ。心配してるのは、ぼくの方なのに……。
わたしは何だか悔しくて、涙が込み上げて来た。必死にそれを堪えながら、再び雲の切れ間から顔を出した月の光をじっと見詰めた。遠くでタロ吉の鳴き声が、聴こえた気がした。今頃タロ吉は、何処をほっつき歩いているだろう。それとももう、路地裏の巣に戻って眠っているだろうか。
路地裏の巣……。そうだ。わたしは閃いた。
「ねえ、おねえさん」
「なあに、にいさん」
「おねえさんは、こんなところに、いたくないでしょう」
「えっ。何よ、行き成り、にいさんったら」
「だから……、おねえさん、ぼくと逃げよう」
わたしは思い切って告げた。
「えっ、にいさんと逃げる」
驚いた雪さんは、じっとわたしを見詰めた。雪さんの瞳の中に、わたしの顔が小さく映っていた。
「でも逃げるって。にいさん、何処へ」
「ぼくの家」
けれど雪さんは直ぐにかぶりを振った。
「駄目よ。お父さん、お母さんに直ぐ見付かっちゃうでしょ」
「うん、そうか。じゃ、ホテルは」
けれど、これも駄目。
「にいさん、お金持ってるの」
今度はわたしがかぶりを振った。
じゃ、どうしよう。
咄嗟にわたしは、あの家を思い出した。それは通学路の途中にある、一軒の空き家だった。そこは長い間住み手がなく、今は雑草が庭に伸び放題。小学校のクラスでも、お化け屋敷と評判の家だった。
「じゃ、学校の近くにある空き家はどうかな」
「空き家。そうねえ」
けれどもやっぱり雪さんは、悲しげにかぶりを振った。
「ありがとう、にいさん。でもやっぱり無理よ、直ぐに見付かっちゃうから。見付かったらね」
「うん」
「おねえさん、殺されちゃうかも、知れないから」
ころされる……。
その一言で吉原から逃げることがどれほど恐ろしいものなのかを実感したわたしは、雪さんとの逃亡生活というわたし自らの甘い夢物語の幕を閉じるしかなかった。わたしの目から、知らずに涙が零れ落ちていた。
「にいさん」
驚いた雪さんも涙を浮かべた。
「ごめんね、にいさん。怖いこと言ったから、驚いちゃったのね。大丈夫よ、心配しないで。ね、にいさん」
泣きながら雪さんは、わたしに笑い掛けた。その青白い作り笑顔の中を、雪さんの涙の滴が地面へとすーっと落ちていった。わたしはそれを美しいと思った。雪さんは、わたしの前にしゃがみ込んだ。
「ありがとう、にいさん。にいさんて、ほんとにやさしいね」
雪さんはそして、わたしの肩に腕を回したかと思うと、ぎゅっとわたしを抱き締めた。
どきどき、どきどきっ……。止まるかと思うほどに、わたしの鼓動は高鳴った。雪さんの大人の女の人の匂いが、やさしくわたしを包み込んでいた。
「ありがとう、本当に。にいさん」
わたしの肩から腕を離すと、雪さんはじっとわたしの顔を見詰めながら、わたしの頬に掛かる涙をその指で拭ってくれた。
「男の子なんだから、もう泣かない、ね」
「うん」
「さ、一緒にお祈りしよう、宇宙船の」
「うん」
宇宙船……。今の雪さんとわたしには、これしか救いはないのだ。こんな夢物語の奇蹟に縋るしか他に術はないのだと悟ったわたしは、雪さんと共に一心に祈った。涙に滲んだ月の光は、それはそれはきれいでならなかった。
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