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(八)梅雨
穏やかなぽかぽか陽気は夢と消え、吉原の街にも灼熱の日々の到来の前に、雨の季節が訪れた。
土砂降りは繊細なネオンライトを乱暴に散らしながら、アスファルトの路地を激しく叩いて落ちていく。雪は折角の楽しみである店の裏口での夕涼みを雨に奪われ、気分は冴えない。店内の窓辺から幾ら空を見上げてみても、灰色の雲ばかりで銀河すら拝めない。
ああ、これでは折角宇宙船が来ても、見逃してしまうのではなかろうか。雪にはそれが何よりの心配であった。
例によって、河野がまた訪れた。
「いやあ、毎日毎日雨ばかりで鬱陶しいねえ、雪ちゃん」
「まったくね、先生」
バスルームで河野の体を洗った後、ベッドルームに移って雪が尋ねる。
「ねえ先生、アルキオネにも雨は降るの」
「どうだろう。行ったことないから、分かんない」
「えっ」
「嘘、嘘。あの星はまあ、楽園みたいなとこだから、雨は降ってもほんの少しかな」
「へえ、いいわね。じゃ、雪は」
「雪。雪、かあ」
考え込む河野。
「降らないと思うよ。だってね、楽園だから、冬がないんだよ」
「ほんと」
「ああ、本当さ」
「そうなんだ」
雪はため息。幾ら高度な文明の星とは言え、子どもの頃から雪を見慣れてきた雪にとっては寂しい限り。でも助けてもらうんだから仕方がない。
「雪ちゃん。アルキオネのことで、頭が一杯みたいだね」
「そりゃ、そうよ」
「よし、じゃ今夜はアルキオネ人の体位について教えて上げよう」
「体位。あっ、そんなの興味ないから、いいよ、いいよ、ねえ先生」
嫌がる雪を、アルキオネ式体位と称して変態的に攻めまくる河野であった。
それからこれと言った珍客もなく、平凡な客が雪の体を抱いては去ってゆく、雨の日々が続いた。
或る晩、一見暗そうな、若いサラリーマン風の客が雪の部屋に現れた。年の頃は雪と同じ位。髪はロングヘアで、当時人気絶頂の吉田拓郎をちょっと神経質にしたタイプ。
雪の個室に入るや男は、暑苦しそうなネクタイを緩め、スーツのポケットから百円ライターとハイライトを取り出して一喫。
「あっ、吸ってもよかったですか、俺」
美味そうに煙を吐き出したその後で、思い出したように緊張した声で、男は雪に尋ねた。
「あら。構いませんよ、お客さん」
にこっと微笑む雪に、若い男は好感を覚えた。
「大変ですね、サラリーマンの方は。暑くても、背広着なきゃいけないから」
「ええ、もう毎日が奴隷ですよ、俺」
奴隷……。
雪は政治家竹林の言った言葉を、ふっと思い出した。この世界は九十九パーセントの経済奴隷と、一パーセントのご主人様とで成り立っている……。
改めて雪は、客を見詰めた。今目の前で小刻みに手を震わせながら、貪るようにハイライトを吸う男の顔を。青ざめた顔と疲れたような表情に、なんかわたしに似てるうと共感を覚えたかその瞬間、雪の体の中をびびびっと高圧電流が走った。生まれて初めての経験だった。
びびびっ……って、何、これ。
と思う間もなく、そして雪はその男に一目惚れ。ストーンと恋に落ちてしまったのである。
わたし、この人、好き……。
厚化粧でまっ白の雪の頬が、血に染まるように紅潮した。
「お客さん、長髪、カッコいい。ガロのマークみたい」
「ええっ、まじ。拓郎には時々、似てるって言われんだけど、俺」
照れ臭そうに髪を描くその仕草がまた、雪には堪らなくカッコ良く映った。
「お客さん、初めて」
バスルームで男の体を洗いながら、雪が尋ねる。
「やばい。実は、そうなんです、俺。なんでこんなとこ、いるんだろ。裸までなって」
またあ、白々しんだから。
苦笑いしながらも、男を憎めない雪。ところが続いた彼の言葉にどっきり。
「死ぬ前に、一度でいいから思い切り女抱いて、それから死のうかなあって」
死ぬ前に……。
見れば相手の顔は、何処か思い詰めたふうでもあった。
「なんかあったの、お客さん」
問い返さずにはいられない雪だった。
「悩み、病気」
しかし男はかぶりを振って答えた。
「そんなんじゃないんだけど、俺。なんか、ただ、死にたくなっちゃってさ……」
ええっ、死にたいって。詰まり、自殺、もしかして……。
ますます放っておけなくなる雪。
「なんで死にたくなっちゃったの。ねえ、向こう行って話そう」
もうプレイどころの話ではない。雪は男の肩を抱くように、ベッドルームへ連れて行った。ふたりは並んでベッドに腰を下ろした。
「なんで」
やさしく囁く雪に、男は心を開いた。
「だってさ、俺生きてたって、なんにも詰まんないんだもん。俺、なんで生きてんのかなあって毎日……」
「うん、分かる、分かる。その気持ち」
「えっ」
「だって、わたしだっておんなじよ。いつもいつも、死にたいって思いながら、生きてんだから」
「きみも」
「うん」
下着姿でじっと自分を見詰める雪が、男には天使のように見えた。
この子、かわいい……。
この瞬間、男も恋に落ちた。
「俺、三上、三上博って言うんだ。博は、万博の博」
「うん、三上博さん。わかった」
「きみは」
「えっ、わたし」
雪はちょっとどっきり。でも咄嗟に本名でなく、店の名前を名乗ってしまった。
「わたしは、雪」
「雪ちゃんか」
自殺志願もすっかり忘れ、自分をアピールする三上。
「名前が三上だけあってさ、俺」
「うん」
「愛唱歌は、学生街の喫茶店、でも、人間なんて、でもなくてさ。三上寛の、夢は夜ひらく、ばっか歌ってんだよ、俺」
「へえ、どんな歌。歌ってみて」
「知らないの、夢は夜ひらく」
「うん、ごめんね。世間のこと、よく知らないの、わたし。だって、ほとんどこの店に監禁されてるようなもんだから」
「監禁。何、それ。そりゃ、ほんと酷いな」
「でしょ、博さん」
熱い眼差しで見詰めながら自分の肩に寄り添って来る雪に、三上は胸がキュンとなった。恐る恐る腕を雪の肩に回しながら、三上は歌い出した。夢は夜ひらく……。
三上の歌を子守唄のように耳にしながら、雪は目を瞑った。夢、夜ひらく夢って……、吉原、ネオン、宇宙ステーション、宇宙船、アルキオネ……。この唄、わたしにぴったり。
「博さん、素敵」
目を開けて、うっとりと微笑む雪に、三上はもう爆発寸前。
「雪ちゃん。俺、もう我慢出来ない」
「うん。いいわよ、博。早く来て。わたしにも、あなたのカルピスをいっぱい、ちょうだい」
商売を忘れて抱かれた女と、吉原の女を本気で愛した男。男と女は本能のまんま、避妊もせずに結ばれたのだった。
だって、どうせわたしは、冬には死んでしまう身。いいのよ、どうなっても……。
夜の夢の後、ベッドに座り直し、ふたりは肩を寄せ合い語り合った。
「博、なんで、生きてたって詰まんないの。わたしに詳しく話して」
「俺には、夢も希望もないからさ」
「わたしもおんなじよ」
「そうさ、雪ちゃんもおんなじ。みんな、犠牲者なんだ」
「犠牲者」
「ああ。俺、さっき、奴隷って言ったろ」
「うん」
「この世界はさ、みんな嘘っぱちなんだよ。科学も政治も経済も宗教も家族も、みんな嘘っぱちの子供騙しなのさ」
難しそうな話と思ったが、雪が黙って聞いていた。
「それなのに、その子供騙しに騙されたまんま俺たちはみんな、死ぬまで奴隷のように働かされるんだ。金の為に、経済っていう目に見えない檻の中に閉じ込められてね。逃げ場所なんかありゃしない。逃げたら路頭に迷うだけ」
「うん」
「虚しいもんさ。な、雪ちゃん、夢も希望もないだろ」
「そうだね」
適当に相槌を打つ雪。
「でも、こんな奴隷の俺でも、こうやって雪ちゃんと愛し合えたから、もう何も思い残すことなく、死ねるよ俺。ありがとう、雪ちゃん」
「博、やっぱり死ぬの」
ああ。三上は黙って頷いた。そんな三上を見詰めながら、雪もまた自殺願望へと引っ張られた。否、三上との心中へと……。
わたしだって博と愛し合えたんだから、もう何も思い残すことなく死ねる……。
「ねえ、博。何処で、どうやって死ぬの」
「うん。ここで」
「ここっ」
三上は冗談のつもりだった。しかし雪は、本気にした。
「いいよ、博」
「えっ」
「で、どうやって死ぬ」
「死ぬって、もしかして、雪ちゃんも一緒に」
うん。顔を強張らせた三上に、雪は無言で頷いた。
「博、どうするの」
「ああ、こいつを飲むんだよ」
三上はスーツの内ポケットから、白い錠剤が詰まったビンを取り出した。
「何、それ」
「睡眠薬さ」
「わかった」
ごくん、と生唾を飲み込みながら、頷いた雪。
「本気、雪ちゃん。ほんとに本気」
「うん。博こそ、大丈夫」
「ああ、俺は、俺は最初っから本気だよ」
腹の据わった雪に比して、しかし三上は怖気付いたふうにも見える。
「ふたりで一緒に、天国へ行こう。ねえ、博、天国でずっと、幸せに暮らそうよ」
「でも、雪ちゃん」
躊躇う三上。
やっぱ、俺、死ねない。だって……。
三上の中に、さっき雪と交わった、あの怒涛のような快楽のときめきが甦った。死んじまったら、もうあんな気持ちいいこと、出来なくなるじゃねえか。勿体無い。
「雪ちゃん、俺、なんて言うか」
「どうしたの、博」
「ああ。ほら、折角こうして雪ちゃんと出会った訳だし。少しは俺、世の中に希望みたいなもん、持てそうな気もして来たから」
「だから」
「ああ。だから今夜死ぬのは、止めようかなあって。駄目、雪ちゃん」
「えっ」
拍子抜けしながらも、にっこりと三上に雪は微笑み返した。
「いいよ、博がそれでいいんなら」
「雪ちゃん」
再び熱く抱擁し、唇を貪り合うふたり。
「雪ちゃん、俺、また来るから。絶対、来るからね」
「うん、わたし待ってる。でも、無理しないでね」
涙を堪えて手を振る雪に見送られ、三上はパンドラを後にした。
こうして三上との出会いによって、絶望の中にも一筋の希望の光を見出した雪だった。しかし、そうは問屋が卸さない。
三上との愛に目覚めた雪は、それから直ぐに三上以外の男と寝ることが嫌になってしまった。詰まり売春が嫌になってしまったのである。かといって逃げる訳にもいかない。仕方なく雪は、泣く泣く売春稼業を続けたのだった。
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