彼女は天敵

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「あの娘、頼んだら、やらせてくれそうだから!カラダ柔らかいし、いろんな体位が楽しめそう!」 ケンはご機嫌にスキップしながら、街灯のまばらな夜道を私の後についてくる。 そのまま私のマンションまでくると、 「用事があるから1時間したら起こせよ」 と、リビングの床でガーガーとイビキをかいて眠り込んだ。 「自分の下宿に帰ればいいのに」 ケンが帰らない理由は一つ。 私のマンションから、ミチルのアパートが近いからだ。 ケンの下宿はミチルのアパートからかなり遠い。 私の部屋を休憩所にして、またミチルに会いに行く気なのだ。 「ずいぶんバカにした話ね」 図々しいにもほどがある。 「1時間したらと言ってたけど、この男たぶん起きないわね」 怒りのあまりまんじりともできなかった私は、1時間後にケンを起こしてみた。 「ああ~?ううん~?」 肩を揺すっても叩いても、ケンはまったく起きない。 バカバカしくなってそのまま放っておいたら、朝の5時にバネ仕掛けの人形のように飛び起きた。 「何で起こさないんだよ!?」 「何回も起こしたのに起きなかったでしょ?」 「うるさい!顔をギトギトさせやがって!!」 あんたのせいで、顔も洗ってないのだと、この男に言ってやりたい。 「バイトしろや!嫌なんだよ!この部屋でお前が俺を、じっと待ってると思ったら!」 ケンはよほど腹が立つのか、無関係なことで私を責め出した。 「待ってないし、今年は私、就活あるから」 「ホラー見せたら、『キャー!怖い!』とか言って、抱きついてくるかと思ってたのに!お前は全然可愛くないんだよ!!」 ホラーを見て、新しい経験は人格を向上させるなどと言っていたが、あれも嘘だった。 違和感を感じながらも、こんな男を信じていたなんて私は大バカだ!! 「料理ったって、魚料理も出さねぇクセに!!」 「ししゃも、食べたでしょ?」 「ししゃもは魚と思っていない」 まるで大人と子供のケンカだ。 まったく話にならない。 「早く行った方がいいわよ。相手の人、待ってるんじゃないの?」 私がそういうと、ケンがたちまち青ざめた。 デイパックを肩にかけると深刻な顔をして、玄関に向かう。 そして後ろ手に思い切りドアを叩きつけると、やっと帰っていった。 ◆ 瞬く間に季節が過ぎ、夏休みが明けた。 就活も大詰めを迎え、私は地元の企業にいくつかの内定をもらった。 実家から通勤できる会社ばかりだったので、両親の機嫌もすこぶる良い。 そのせいなのか、母は不思議なことにケンのことを口にすることはなかった。 ケンは新歓コンパのあの夜から、私の部屋にくることがほとんどなくなった。 ミチルの登場で私への執着が薄まっていったのだ。 私はミチルへの嫉妬より、むしろホッとしていた。 ミチルがサークルに入部した頃から、ケンは以前ほどは私を求めなくなっていた。 それまではとにかく執ように体に触れてきた。 特にキスばかり迫ってくる。 マンションの外壁に押しつけられ、無理やり舌をねじ込まれたのは一度や二度ではなかった。 ろくに歯も磨かず、風呂にも入らない。 口臭と体臭がひどく、本人はむしろそのことを自慢していた。 「下宿の管理人が夕方になると掃除始めてさあ。風呂場に行くと風呂掃除手伝わされるから、俺、風呂に入らないの」 そう言って、「風呂掃除やってる他の連中ってアホだよな」とヘラヘラ笑っていた。 最悪だ。 怠け者で、タバコと安物のコロンの甘ったるい体臭のする男が、執ようにキスしてくるのだ。 「何?その話し方?なんか口に入れてんの?」 ケンが帰ると、私はすぐに浴室に飛び込む。 ケンに触れられた後は体中がムズムズして痒い。 口の中も不愉快で気持ち悪い。 だからケンとキスした後は何度も、口をすすぐ。 だがそのことに気づいたケンは、なかなか帰らない。 しつこくドアの外に粘る。 「はい!ゴック~ン!ゴックン!」 この男はニコニコ笑いながら、私に口の中の唾液を飲み込めと命じてくる。 「とにかく、帰って!」 「お前のしゃべり方、おかしいだろう?はい!ゴック~ン!ゴックン!」 しつこい! とにかく、しつこい! 私がイヤイヤ飲み込むのを確認してから、ゆっくりと開いたドアを閉める。 私は激しい吐き気をこらえ、キッチンの水道レバーを開く。 するとすかさずケンがドアを開け、また部屋に戻ってくる。 「はるた~ん?またお兄さんとエッチするう~?」 「やめて!」 ゲラゲラ大笑いするケンに床に押さえつけられたのは毎回だった。 けれどこの男は性欲は強いが、一線は越えたことがない。 たぶん以前本人が言っように女を抱くことに不安があるに違いなかった。 何にしても、あの男に会わないで済むのは幸せだ。 私は実家から自分のマンションに戻ると、久しぶりに映画にでも行くことにした。 実家の近くの映画館では公開終了だった作品が、ちょうどこちらの映画館で上映されていた。 「就活も頑張ったし、自分へのご褒美にちょうど良いよね」 好きな小説の映画化だったし、推しの俳優が主役だ。ぜひ映画館の大スクリーンで鑑賞したい。 私は日差しの涼しい午前中に映画館に出かけることにした。 徒歩で駅に向かう。半袖のTシャツと短めのスカート姿だが、それでも暑い。 しばらく歩いてようやく駅が見えてきた時、キィーキィーと耳障りな軋み音が聞こえてきた。 「この音……」 周囲の風景に気を取られていた私はハッとして、音の聞こえる前を凝視した。 すると見覚えのある自転車に乗った男が、前方からゆっくりとこちらに近づいてきていた。 「あれは……あの男!?」 ノロノロと自転車を右に左に蛇行運転させながらケンが私に近づいてくる。 甘ったるいコロンの不快な香りが風に乗って漂ってきた。 アスファルトに熱せられた夏の蒸し暑い空気が、ムッと私を包む。 緊張と暑さで体中から一気に汗が吹き出す。 緊張で口の中がカラカラだ。なぜか口の中がザリザリして土埃の味がした。 「俺、図書館の帰りなんだよ」 だが、私が恐れていたほどケンにはいつもの覇気がない。 徹夜明けのような疲れ切った顔で私に気がつくと、ギョッとして目を見開いている。 しかも尋ねてもいないのに、すぐにバレる言い訳までしている。 「ふうん、そうなの?私、映画に行くんだけど一緒にどう?」 もちろん、本気ではない。 ケチなこの男がお金を使う娯楽に飛びつくはずはない。 「映画!?今から行って間に合うのかよ!?」 「当たり前よ、間に合うように出かけてきたんだから」 「洗いざらしのTシャツなんか、着やがって!!」 この男は何かを隠している。 目が据わって、私を睨みつけてくるが、なかなか次の言葉が出てこない。 「じゃあ私、映画に遅れるから」 私はケンに片手を振って歩き出す。 いつものように罵声を浴びせたり、追いかけてくるかと後ろを振り返る。 するとケンは私に構わず、ヨロヨロと自転車を漕いでそのまま帰って行った。 「あの男の隠し事は一つしかない」 私はそのまま駅まで歩いて、道路沿いのアパートの前に立つ。 新歓コンパの夜に立ち寄った場所。 ミチルのアパートだった。 間違いない。 ケンは昨夜ミチルの部屋に泊まったのだ。 そして朝帰りの途中で、私に出会ってしまった。 「それなら私と、はっきり別れればいいのに」 あまり来ないとはいえ、ケンは今でも思い出したように私の部屋にやってくる。 あの男は私とミチルに二股をかけ、相変わらず私に嫌がらせを繰り返している。 「もう嫌だ。こんなことばかり繰り返したくない――――!」 私は映画をあきらめ、自分のマンションに引き返すことに決めた。 あの悪魔と別れるために……。
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