悪夢の始まり

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悪夢の始まり

山崎ケンと付き合うつもりは、まったくなかった。 ケンは同じ大学のサークルの先輩だったが、留年を繰り返していた。 私は文芸サークルの同じ1回生のAくんと、3年近く交際して別れた直後だった。 原因はAくんの卒業後の進路。 彼が目指していた職業には、単位を取ってもこのままでは就けない。それなら、大学を辞めて他の進路を進むべきか? Aくんは私には何の相談もなく、大学を辞めてしまった。 彼からの別れの言葉は、「自分の将来で頭がいっぱいだから、晴美さんのことまで考えられない」というものだった。 私は意味がわからなかった。 将来ってなに? Aくんの将来には私は含まれていないの? 今すぐ結婚までは考えてなかった。 けれど、このまま順調に交際が進んで大学卒業後、お互いに就職が決まれば自然にそういう流れになるかな、と漠然と考えていた。 なのに、結婚を意識していたのは私だけだったのだ。 私の心は奈落に突き落とされた。 まさか自分から熱心にアプローチしてきたAくんから、突然別れを切り出されるとは夢にも思ってもいなかったからだ。 3回生になると講義に出るのは週1、2回となる。 私はほとんどの日を独り暮らしのマンションに閉じこもりなるべく人に会わなかった。 サークルも講義を受ける日だけ、顔を出す程度。 Aくんは当然サークルも辞めてしまったから、サークルメンバー全員は口にこそ出さないが私と彼が別れたことは知っていた。 そんなある日。 「そろそろ卒論の準備でもしようかな」 別れからひと月ほど経ち、私も少しづつだが落ちついてきた。 Aくんからのプレゼントや思い出の品は全部処分して、そろそろ真剣に私自身の将来を考える気になっていた。 それでも、時折訳もなく波が溢れてくる時がある。 ふと、Aくんとの幸せだった頃を思い出して声を上げて部屋で泣きじゃくってしまう。 たまらないほどの喪失感と悲しみ。 まさかこれほど私の中で、Aくんの存在が大きいとは私自身知らなかった。 1度泣き出すと、後から後から涙が溢れて止まらない。 そんな日々がひと月以上続いていた。 卒論提出まであと1年以上ある。それでもテーマを決め資料を集め、場合によっては取材旅行も必要になるかもしれない。 準備は早いに越したことはない。 私は気分転換も兼ねて、新しくパソコンとプリンターを買うことにしてた。 どうせ卒論を書くのに必要なのだ。 だけどあまりパソコンは得意ではないし、どの機種が初心者にも使いやすいかもわからない。 そこで友人たちにも尋ねてみたが、あまり興味がないらしく、「手頃なやつを適当に買った」という返事ばかりだった。 「仕方ないな、じゃあ先輩に聞くかな」 私はあまり気が進まないが、サークルの中で一番パソコンに詳しいケンに教えてもらうことにしたのだ。 「パソコンを新調したいのでアドバイス頂けますか?」 個人的にメッセージを送るのは初めてだが、ケンからすぐに返信がきた。 「いいよ。今すぐ出て来れる?」 私はスマホを見て違和感を覚えた。 ケンとはサークルではほとんど話したことがない。 留年ばかりしている何か暗い感じの先輩と思っていた。 なのに、文面が友人のように馴れ馴れしい。 「いえ、部会の時で良いですから」 メッセージで教えてくれるか、サークルで顔を合わせた時にでも教えてくれればいい。 そう軽く考えていた私は、ケンからのいきなりの呼び出しに戸惑う。 「でもそれじゃ、遅くなるでしょ?ピエロでいい?」 ピエロは私のマンション近くの喫茶店だ。 何で先輩は私のマンションの住所を知っているんだろう?来たことないのに? 私は自分が頼んだ手前、仕方なく返信してピエロに向かった。 土曜の午後だが学生街の喫茶店はかえって平日より空いていた。 私が窓際のテーブル席に座っていると、10分ほどでケンがやってきた。 「飯、食った?」 「いえ、私は紅茶だけで」 「そう、じゃあパソコンの話だけど」 ケンはコーヒーを頼むと早速用件に入った。 だが、私が期待していた機種や使い勝手の良さの説明はしてくれない。 プログラムやパソコン内部の駆動装置の話ばかりを延々と続ける。 「あの、先輩。卒論を書くだけなので専門的な知識はあまり必要ないんですが」 「そう?これくらいは常識でしょ?それで演算処理能力はね」 ケンは立て板に水とばかりに、1時間あまり一方的に専門知識を喋り続けた。 「今日はありがとうございました」 話が一段落ついた所で私は頭を下げ、喫茶店を後にした。 正直なところ、早くケンから解放されたかった。 話の内容は難解でひとりよがり。しかもまったくパソコン選びに役に立たない。 「私が頼んだんだから、文句は言えないか」 土曜の午後がすっかり無駄になった。 ケンとはそのまま喫茶店で別れたが、この日から頻繁にメッセージが送られてくるようになった。 季節は6月下旬。 ケンはグループラインで、サークルのメンバー全員に、蛍狩りや花火大会の企画を提案した。 私があまり乗り気でないとケンは必ず、個人的にメッセージを送ってくる。 「閉じ込もってばかりじゃダメだよ」 「もうすぐ夏祭りだね」 「サークルみんなで浴衣で出かけてみようよ」 他人とはしゃぐ気分じゃない。 それでも、先輩に気を使わせて悪いとも思った。 私はケンと遊ぶというより、サークルのみんなと出かける気分で、徐々にケンの誘いを受け始めた。
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