また会えたのかな

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 昨年十月二十八日に我が家の愛犬のパウロが亡くなりました。犬種はマルチーズ。  生後五か月の頃に、神戸のブリーダーから我が家で一緒に暮らすようになりました。来たばかりの頃はおしっこも両足をついたまま行う位の幼い子で、部屋の中をチョコチョコ動き回り、ともかく元気で、キッチン用のスポンジも前足で抱えてガリガリかじっていました。数年経ち、公園で散歩をすると一時間半位同じ所を二周三周として、他の犬と会うと、ほとんど必ず吠えていました。我が家には小さい庭があり、その前には民間の駐車場がありますが、庭に出ている時に駐車場に人が来ると、何度も吠え続けます。周りの住民に迷惑になるので、抱っこして部屋に戻します。隣家との間には柵を作っていました が、隙間から抜け出し、隣家に迷惑をかけた事もありました。  パウロが我が家に来た頃は、私達夫婦は共働きで、日中は一人でお留守番になります。私は早朝に出勤してしまい、妻が家を出る時は、玄関まで来て「行かないで!」と吠え続け、玄関のドアを閉めて見えなくなるまで見続けます。その内、パウロは諦めて、玄関まで来なくなりました。飛行機に乗る為にケージに入れて預けると、空港中に響き渡る程の大声で吠え続けます。時には、我々が居ない時に、寂しさの余り、遠吠えをしていた、と近所の人が教えてくれました。妻が帰宅すると、玄関までトコトコと走り寄ってきて、遊んで遊んでとせがみます。でも、夕飯の支度があって、かまってあげないと、ビーズクッションの上に寂しそうに乗って、キッチンの妻の顔を恨めしそうに見続けていました。(今でも、平日に遊んであげなかったことを後悔しています。)  子供の頃はケージで寝かしつけていましたが、夜中になると、トコトコとケージから出てきてキュンキュン鳴き、私達を起こしてしまう為、我々のベッドで一緒に寝るようにしました。大体いつも私のベッドで一緒に寝ます。一旦妻のベッドに置いても、必ず私のベッドに来ます。そして、私の枕の横に丸まって寝ます。日が短くなると、早朝四時半には私の頭を叩き、散歩に行かされ、時には、三時半に起こされることもありました。どんなに遅い時間、例えば夜中一時に寝ても、必ず五時半には起こします。犬は寝る場所では絶対大小の便をしません。これは助かりました。夜中にはベッドから自分で降りて、お風呂の中や洗面所に、よくおしっこや大便をしました。掃除が結構大変でした。土日祝祭日には、朝、昼と夕方の三回散歩させられました。私がトイレに入っていると、トコトコとやってきて、散歩散歩と、後ろ足を立てて、前足を私の膝に乗せて散歩をせがみます。散歩から戻ると、部屋の中を必ず走り回っていました。嬉しかったのだと思います。一方、散歩から帰って汚れた足を洗うと、洗っている間ジッとしていなければならなかったストレスからか、この時も部屋の中を走り回ります。車で外出する時は、必ず私の腕の上に乗り、外を眺めています。私たちが食事をしていると、必ず僕にもちょうだい、とせがみます。私は甘やかし過ぎのところがあり、なんでも与えてしまいます。パウロの健康のことから、よく妻から叱られました。「パウロを殺すつもり?」マルチーズの平均寿命は十四歳です。  パウロも、十四歳になった頃から急に弱ってきました。よりによって、実家の一人暮らしの母を迎えに行く日とパウロの死が重なってしまいました。我が家を出る時、「僕が帰ってくるまで待っててね。」と言って母を迎えに行きましたが、我が家を出た当日に亡くなってしまいました。一生、心の傷として残ります。生きている最後に抱くこともできませんでした。 亡くなるニケ月前位から急に弱り、散歩もヨタヨタ状態となりました。どんどん弱って、動物病院で診察して頂くと、心臓から送り出される血流の頻度が本来四回なければならないところ、一回しか血液を送り出すことができない位に弱っていました。ここからパウロの介護が始まりました。処方された薬も、当初二種類からだんだん増えていき、亡くなる時には六種類に増えていました。薬を服用させることもパウロとの格闘です。様々な種類のご飯と一緒にあげていましたが、なかなか食べて服用してくれません。食べ物のみ飲み込み、薬だけ吐き出す器用さを持っていました。昨日食べてくれた食べ物も、今日は食べてくれません。どれ程捨ててしまったことか。日中は、リビングのビーズクッションの上で寝ることが好きでしたが、弱ってからはビーズクッションに上がることもできなくなりました。苦しいようで、壁際の隅に移動してうつ伏せで必死に苦しみに耐えていました。おしっこをする際にも、片足を上げることさえできなくなっていました。以前は動物病院に連れて行く時には、車で進んでいく外の景色から病院に連れて行かれることが分かるようで、嫌だと何度も吠えまくり、病院内でも吠え続けていましたが、もう吠える元気もありません。母を迎えに行った日の夕方、妻から、パウロがころげ回って大声をあげて苦しんでいる旨の電話がありました。一度妻はタクシーで動物病院に連れて行ってくれましたが、薬を服用されただけでした。夜になり、いよいよ弱り、呼吸も困難になってきました。妻は、スマホの画面でパウロを映して映像を僕に送 信し続け、祈り続けてくれました。私は、何度も画面越しにパウロの名前を呼び続けました。私のことが分かっていたのかどうかは分かりません。妻の腕に抱かれてやっと呼吸をしている状態でした。母にもその映像を見せましたが、耐えられず、泣き出しました。そして一時間後、とうとう息絶えてしまいました。その夜は、ほとんど眠れませんでした。自宅に着くと、パウロはクッションの上で目は半開きのまま横になっていました。私は、まだパウロが生きているような気がして、その時は涙は出ませんでした。三日後に焼却した後、パウロと散歩した道路を通るたびに涙が溢れ、嗚咽を繰り返しました。  パウロは、母が我が家で同居する為に来る為、自分が居ると部屋のスペースが足りなくなるから、自分は居ない方がよい、と気を使って旅立ってくれたのかもしれません。部屋のあちこちにパウロ用のケージや物が置いてありました。母が施設に入所している間に、母の部屋の準備の為、亡くなってしまった犬のケージ、ビーズクッションやタオルなど、ほとんど処分しました。スマホやパソコンに保存していた生存中の犬の写真や動画をまとめましたが、ある時、私が誤って表示できなくしてしまいました。その時も、妻はわんわん泣き続けました。「なんてことをしてくれたの。パウロとのつながりが何も無くなってしまったじゃない!」言われても仕方ありません。数日後、全部ではなかったかもしれませんが、四苦八苦しながらパウロとの思い出の写真と動画を表示させることができるようになりました。庭で走り回っていた頃がとても新鮮に脳裏によみがえってきます。  パウロが亡くなって半年が過ぎようとしている時、妻はどうしてもまたマルチーズと一緒に暮らしたくて、タブレットで頻繁にホームページを検索していました。生前パウロをかまってあげなかった悔いがずっと残っています。ある日、インターネットで保護犬のマルチーズが出てきました。既に三歳半でしたが、妻はいてもたってもいられません。「パウロ、また会えたね!」の気持ちが強くなっています。どうしても引き取りたい。パウロに不憫な思いをさせたことの償いとして、保護犬に愛情を思い切り注ぎたい。私も、パウロの死後に温もりを感じることができなかった分、思い切り抱っこしたい思いで一杯です。まだ実際に会えていないので、どんな性格の子なのかは分りませんが、最善の出会いができることを望んでいます。 パウロが生活する為に揃えていた物を殆ど処分してしまったので、また新規に買い揃えなければなりませんが、パウロが使っていた物はパウロの物ですから、気持ちを切り替えます。
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