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私の幸せな時間
今年の春、大学生になり、東京で一人暮らしを始めた。
アパートの近くを散策しながら小道に入ると、小さなカフェを見つけた。
おとぎ話に出てくるようなかわいらしい外観に吸い寄せられ、楕円形の扉を開けると、カランカランと鈴の音がした。
その瞬間、コーヒーの香りに包まれた。
「いらっしゃいませ」
優しい声音の若い女性店員がにっこりと微笑んだ。
一人であることを告げると、彼女は窓際の席に案内してくれた。
カウンターの向こうには、背の高い男性が立っていた。
二人の話す様子から夫婦なのだなと思った。
夫婦で小さなカフェを開くというのも憧れる。
感じの良いご夫婦に、コーヒーはおいしいし、ちょっと薄暗い店内も落ち着く。
良い店を見つけた。
ほっと一息つくと、入口の扉が開き、一人の男性が現れた。
彼は、「こんにちは」と夫婦に挨拶すると、まっすぐに私の方に向かってきた。
背が高く、整った顔立ちの男性に思わずみとれてしまった。
目が合うと、彼は軽く笑みを浮かべ、私の隣のテーブルについた。
「いつものでいいですか?」
女性の問いかけに、彼は「はい」と返事をして文庫本を開いた。
常連さんなんだな。
軽装で、駅から少し離れた小道のカフェに来るということはきっと近所に住んでいるのだろう。
コーヒーを飲みながら、隣で彼が立てる小さな音に耳を澄ませた。
本のページをめくる音、カップをソーサーに戻したときの陶器の音、足を組み換えたときの衣擦れの音。
客は、私たち二人しかいない。
時々、カウンターの向こうで夫婦の会話が聞こえ、静かな時間が流れていた。
1時間が経つ頃、私は、コーヒーのお替わりを頼んだ。
特にやることもないのだが、なんとなく離れがたい。
新しいコーヒーが運ばれてくると、隣の彼が席を立った。
その瞬間、ポケットに入れようとした本がすべって私の足元近くに落ち、ちょうど表紙が見えた。
読みたいなと思っていたミステリー小説だった。
それを拾い上げ、彼に渡すと、彼はさわやかに微笑んでお礼を言い、店を出た。
彼の余韻に浸りながらおいしいコーヒーを飲めることに幸せを感じた。
「長居してしまってすいません。コーヒーがおいしくて……」
隣のテーブルを片づけている奥さんに話しかけた。
彼女は、満面の笑みを浮かべると、チラッと旦那さんの方を見た。
「ありがとうございます。そんなこと言ってもらえるなんてすごくうれしいです。何時間でも居てください」
やはり二人はご夫婦で、この店は1年前に開店したそうだ。
この近くで一人暮らしを始めたばかりだと告げると、早苗さんはこの街のことや近所のおいしいお店などを教えてくれた。
知り合いがいない土地で、こういう優しい人に出会えたということだけで、これからやっていけそうな気がする。
次の日、1着しか持っていないワンピースを着てカフェを訪れた。
早苗さんは「美咲ちゃん、いらっしゃい」と名前で呼んで出迎えてくれた。
窓際の席には昨日の彼がいた。
文庫本から顔を上げた彼は、私に向かって「あっ、また会いましたね」と言った。
偶然なんかじゃない。
彼がいるかもしれないと思ってやって来たのだ。
彼の隣のテーブルに座ると、彼の視線が本の文字に戻る前に質問を投げかけた。
「近くに住んでいるんですか?」
彼は本を閉じると、身体を少しこちらに向けた。
「この店のすぐ裏のアパートに住んでます」
「美咲ちゃんは、近くに引っ越してきたばかりなんですって」
水を運んできた早苗さんは、彼に向かって話すと、今度は私に言った。
「大貴くんも大学生なのよ。2年生。コーヒーでいい?」
早苗さんが立ち去ると、静かになった。
もっと話したいと思うのだが、緊張で言葉が出ない。
彼はカップに口をつけ、文庫本に手を伸ばした。
彼が小説の世界に入ってしまったらもう話せない。
そう思ってとっさに声を出した。
「その本……」
彼と目が合った。
「その本、私も読みたいと思っていたんです。おもしろいですか?」
「もうすぐ読み終わるので、貸しましょうか?」
あと十分で読み終わるという彼を私はコーヒーを飲みながら待った。
隣で彼の立てる音に耳を澄まし、ちょうどクライマックスのあたりを読んでいるのかなと想像するのは楽しかった。
カフェを出ると、私は、駅前の商業施設に向かった。
田舎から出てきたダサい女だと思われたくない。
3件の店を回り、それぞれマネキンが着ている服をそのまま3着とネックレスを買った。
翌日、彼に借りた本を持ってカフェに出向いた。
彼が来るかもしれないと意識を入口に向けながら小説の世界に入り込むのは難しい。
小説の文字を追っていても、いつのまにか彼のことを考えてしまってなかなか先に進まない。
それでも、この時間が楽しかった。
3時間経っても彼は現れなかった。
「大貴さんは、いつも何時ごろ来るんですか?」
早苗さんに聞いた。
「特に決まってないかな? 午前中のこともあれば夕方や夜に来ることもあるし、2、3日来ないこともあるよ」
早苗さんが含み笑いをしたので、私は慌てて手を振った。
「ちがうんです。これ、借りてるので、返さないと……」
「連絡先、聞いてないの?」
自分から連絡先を聞くなんてできない。
私は恋愛経験がないのだ。
初恋は10歳のときで、中学のときも高校のときも好きな人はいたが、片思い止まりで告白をしたこともされたこともなかった。
日曜日の午前中、カフェの扉を開けるといつもと雰囲気がちがっていた。
ざわざわと人の話し声が店内を包みこんでいた。
店は満席だった。
早苗さんは忙しそうに歩き回っていたが、私に気づくと「ちょっと待って」と口を動かした。
窓際の席に視線を向けると、彼がモーニングのパンを片手に本を読んでいた。
早苗さんは彼に言った。
「大貴くん、相席いい?」
彼は、顔を上げるとかじっていたパンをお皿に置いて「もちろんです」と皿を自分の方に寄せた。
「美咲ちゃん、相席でごめんね」
早苗さんは、彼に見えないように私にウインクをした。
彼と目が合うと、同時に「おはようございます」と会釈をし、同時に照れた。
彼を目の前にしたら恥ずかしくて彼を直視することができなくて、無意味にメニュー表を眺めた。
「私もモーニングにしようかな」
彼の食べかけのパンをチラッと見てつぶやくと、彼は、「ここのモーニングは絶品ですよ」と口をもぐもぐさせながら言った。
テーブルの上の文庫本を見ると、私が借りている本の同じシリーズの小説だった。
「本、まだ読み終わってなくて……」
本当は、読み終わっているのだが、これを返したら接点がなくなってしまう気がして嘘をついた。
「急いでないので大丈夫ですよ」
彼は、テーブルの上の文庫本を椅子の上に置いた。
それが私と会話をしたいという意思のように思えて心が躍った。
私たちは、向かい合い、目を合わせて、小説のことや大学のことを話した。
その間、ずっと首元のネックレスを手でもてあそんだ。
普段身につけないネックレスが気になるし、触っていると少し緊張がほぐれた。
メイクも覚えたてで、彼の話を聞きながら、コーヒーカップのふちについた赤い口紅を見てうっとりしてしまう。
11時を過ぎると、お客さんが減り、カウンターで新聞を読むおじさんと私たちだけになった。
このあと、どこかに行きませんか?
彼からそんな言葉が飛び出すのを期待しながら、冷めたコーヒーをすする。
「時間、大丈夫ですか?」
ドキドキしながら「私は大丈夫です」と言って彼の次の言葉を待った。
「僕ばかりしゃべってしまってすいません。これよかったら読みますか?」
私の前にさっきまで読んでいた文庫本を滑らせると、彼は、「お先に失礼します」と私の横をすり抜け店をあとにした。
少しがっかりはしたものの、知り合ったばかりでそんなに簡単にデートにこぎつけるほど世の中甘くない。
これから少しずつ距離を詰めながらお互いを知って気持ちを伝える。
これが普通といえば普通だ。
彼が貸してくれた本をぎゅっと胸の前で抱きしめ、彼との会話を反芻した。
夜、ベッドの中で彼に借りた本を開いた。
パラパラとめくるとパンくずが落ちた。
パンをかじる彼のあどけない顔が頭に浮かんだ。
文字を目で追いながら、この文章は彼が読んだのだと思うと何ともいえない恍惚感に包まれる。
のどの渇きを覚えて目が覚めた。
まぶたの隙間から、真っ白い天井が見える。
やけにまぶしい。
起き上がろうとしたが身体がうまく動かなかった。
「美咲? 美咲? 美咲!」
近くで母の声がする。
どうして? 田舎にいるはずの母が何で東京にいるのだろう。
頭もうまく回らない。
しばらくすると、バタバタと何人もの足音が近づいて、私のベッドの周りを取り囲んだ。
知らない人々の顔が私をのぞき込んでいる。
夢? これは夢なの?
「美咲!」
母が泣きながら私の手を握っていた。
「美咲さん」
ひげ面の年配の男性が私の名を呼んでいる。
「分かりますか? ここは病院ですよ」
病院? 何で病院にいるの?
記憶がまったくなかった。
日曜の午前中、彼と一緒にモーニングを食べながらいろんな話をして本を借りた。
夜、ベッドの中で本を読んでそのまま寝てしまったところまで覚えている。
「美咲さんは事故に遭ったんですよ」
「事故?」
かすれた声を出すと、母は私を抱きしめ嗚咽を漏らした。
「大丈夫ですよ。ゆっくりと回復していきましょう」
彼に知らせなきゃ。
自分の身体のことよりも、真っ先に彼のことを思った。
突然、私がカフェをおとずれなくなったら、彼は心配するかもしれないし、本も早く読んで返さないと。
ゆっくりと首を動かし母にたずねた。
「今日、何曜日?」
「金曜日よ」
もう5日も経っている。
彼に早く知らせたい。
その一心で身体を起こそうとするのだが、身体に力が入らなかった。
「急に動いちゃダメよ。22年間も眠っていたんだから」
母は、私の身体をいたわるようにさすった。
22年? 眠っていた? 私は事故にあったんじゃないの?
「22年って?」
母は、目を伏せると意を決したように言葉を発した。
「美咲は、22年前に交通事故に遭ったのよ。上京するために駅に向かっていたとき、車にはねられたの」
そんなはずない。
私は新幹線に乗ったし、東京駅で迷子になったことも覚えている。
地下鉄でアパートの最寄り駅まで行って、近所に住む大家さんにもちゃんと挨拶をした。
それにおいしいコーヒーが飲めるカフェも見つけたし、そこで彼に出会って、一緒にモーニングを食べた。
自分が経験した記憶が確かにある。
「夢を見ていたのかもしれませんね」
ひげ面の医師は言った。
「奇跡ですよ。これから検査とリハビリと……」
それ以上、医師の言葉が耳に入らなかった。
ふらつきながら、私は洗面台に向かった。
「美咲さん? まだ筋力が……」
医師の手を振り払い、私は、洗面台に手をついた。
そして、ゆっくりと顔を上げ、鏡に映る自分の顔を確かめた。
そこには、おばさんが映っていた。
口元には、くっきりと法令線があり、目元にはしわが刻まれていた。
頬には、丸いシミがいくつも点在し、肌はカサカサだった。
「……嘘だ。これは私じゃない」
その夜からまったく眠れなくなった。
昼も夜も目が冴えて、目をつむっても一睡もできなかった。
「22年も眠っていたからかしら?」
母は首をかしげたが、医師は、「そんなことありえません」と一刀両断した。
私は、18歳だ。
22年も眠っていたなんて、これこそ夢に決まっている。
早く彼のいる現実に戻りたい。
何度そう思っても、鏡の中には、40歳よりも老けたおばさんがいた。
鏡の中のおばさんが私に告げる。
「これが現実よ。彼の元へ行きたいのなら、長い眠りにつくしかないわね」
おばさんに向かって大きくうなずくと、私は、今までに処方された睡眠薬をすべて飲み、ベッドに横になった。
カランカランという鈴の音、コーヒーの香り。
「美咲ちゃん、いらっしゃい」
優しい早苗さんの声。
窓辺には、本を読む彼の姿。
彼の隣のテーブルにつくと、彼は言った。
「また、会えましたね」
おいしいコーヒーに彼がページをめくる音、コーヒーカップの音、衣擦れの音。
静かに流れる時間。
先日買ったフレアのスカートにこそばゆいネックレス。
カップについた赤い口紅。
ここが私の生きる場所。
読み終わった文庫本をバッグから出し、彼に返そうとしたそのとき、入口の扉から鈴の音と共に華やかな香水の香りが漂ってきた。
「大貴、お待たせ」
すらりとした髪の長い美人の女が、ハイヒールをカツカツと鳴らしながら彼の前に座った。
彼は、読んでいた本を閉じると「コーヒー飲む?」と女に聞いた。
「いらない。それよりも早く行こうよ。お腹空いた」
二人は腕を組んでカフェを出て行った。
外は、すっかり日が落ち街は闇に包まれ、
窓には年老いたおばさんの顔が映っていた。
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