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道順案内
綾香に「次の週末どこに行きたい?」と聞いたら、「ハイキング!」と返ってきたので、ハイキングができる近場の山を探した。
近場といっても車で2時間。
早朝に出発したため、到着するまで綾香は爆睡だった。
「ロープウェイがある」
四角い箱を指差すと、綾香は目を細めて俺を見た。
「もしかして龍二、乗りたいの?」
「い、いや。ハイキングしたいよ」
付き合って1年。20代も後半になって、そろそろ結婚を考える。
綾香と結婚したら、尻に敷かれそうだなと思いながらも、天真爛漫な綾香を見て、それも悪くないかと俺たちは山頂に向かって歩き出した。
ハイキングコースは混み合っていたので、はぐれないように綾香の手を取った。
俺たちのような若いカップルや、年配の女性の集団、小さな子どもを連れた家族連れなど、たくさんの人が山を登っている。
比較的ゆるやかなコースなので、みんなおしゃべりをしながら楽しそうに歩いていた。
途中、幼稚園くらいの子どもが俺たちに手を振ったので、綾香はうれしそうに手を振り返した。
そんな風にコミュニケーションをとりながら歩いていたが、1時間も経つと綾香の歩みは遅くなった。
「休憩しよう」
ハイキングコースを外れたところに石の階段を見つけ、そこに並んで座った。
葉の間から射す木漏れ日、草と土のにおい。
都会のビル群の中では味わえない自然がそこにはあった。
自然を感じながら、俺たちは朝コンビニで買ったおにぎりを食べた。
疲れて口数が少なくなっていた綾香も、おにぎりを食べると元気になったようで笑顔が戻った。
階段を見上げると上まで続いていた。
「この階段登ってみようか?」
綾香に提案すると、彼女は「ダメ!」と俺を制止した。
「ここは山だよ。迷ったら死ぬよ」
普段は明るくポジティブな綾香だけど、妙に堅実なところがある。
先月、パフェを食べに行こうと一緒にカフェを探していたとき、2000円もする人気のパフェを提案したら、綾香はファミレスを選んだ。
男はギャンブル好き、女は現実的。
まあ、女の方がしっかりしているということだろう。
その方が、結婚生活がうまくいくのかもしれない。
よく見ると、階段はハイキングコースに並行してあるようだった。
「すぐにハイキングコースに戻れるから大丈夫だよ」
綾香は、渋々俺について来た。
誰もいない苔の生えた階段を二人きりで登るのも悪くない。
しばらくすると、綾香は歌を歌い出したので、俺も一緒に歌った。
いざというとき、綾香は俺についてきてくれるだろう。
たとえば、定年間近になって、田舎で自給自足の生活をしたいと言ったら綾香はついて来てくれる。
そんなことを思った。
その階段は、結局、ハイキングコースにつながっていた。
コースに戻ると、木でできた手作りの案内看板が立っていた。
『岬トンネルまであと300メートル』
「トンネルがあるんだ。山の中にトンネルなんて珍しいね」
「そうか? あるんじゃないの」
「だって、ここハイキングコースだよ」
そんなことを言い合っているうちに、数メートル先にトンネルが見えた。
前後に人の姿はなく、時々、木々がざわめく音がした。
トンネルの周りは緑の葉で覆われていて、中は真っ暗だった。
綾香は俺の手をぎゅっと握った。
「なんか怖いね」
「大丈夫だよ。みんな通ってるんだから」
そう言って振り返ったが、人が来る気配はなかった。
綾香の手を引いて進む。
目が慣れてくると普通のトンネルで先の方には明かりが見えた。
「ほら、もう出口は近いよ」
俺の声が反響すると、綾香はケラケラと笑った。
トンネルを出ると、また看板があった。
『フラワーパークまであと200メートル』
「フラワーパークだって。写真撮りたい」
看板を見た綾香は、明るい声を出すと、早足で俺の前を歩いた。
こんなところにフラワーパークがあるのか。
インターネットの情報ではそんなことひと言も掲載されていなかった。
見落としたのかな。
開けた場所に到着すると、そこには一面にチューリップ畑が広がっていた。
赤、黄色、白、ピンクなど、色とりどりの色彩と青い空が絵画のようだった。
山の中にこんなに広いチューリップ畑があるなんて。
遠くに見える人影が、米粒のように小さい。
綾香は、チューリップの間をぬって写真を撮っていた。
「若い人はいいですなぁ」
隣からしわがれた声がして驚いた。
いつのまにか、隣にはおじいさんが立っていた。
「写真撮りましょうか?」
おじいさんが言うと、綾香はすっ飛んできた。
「お願いします」
そう言って持っていたスマホをおじいさんに渡し、撮り方を説明した。
その様子を見ていたら、なんとなく懐かしい気持ちになった。
俺が5歳のときに亡くなった大好きだったおじいちゃんに似ていたからだ。
しかも、おじいちゃんはカメラが好きで、よく撮ってくれたのだが、目の前のおじいさんは、おじいちゃんと同じカメラを首にぶら下げていた。
撮った写真を確認していたら、すでにおじいさんの姿はなかった。
「日が暮れちゃうから先を急ごう」
俺たちは、ハイキングコースに戻った。
しばらく歩くと、また案内看板があった。
『三須川まであと100メートル』
「川もあるんだ」
感心していた綾香が首をひねった。
「山の看板ってさ、頂上まで何メートルって教えてくれるんじゃないの?」
たしかに頂上までの距離を示してくれた方が励みになる。
「もしかしたらこの山は、寄り道をメインにしてるのかもね。山道だけじゃ疲れるだけだろ?」
「ほんとだ。私、あんまり疲れてない」
綾香は、そう言うとその場でジャンプした。
しばらく歩くと、川のせせらぎが聞こえた。
川幅は2メートル近くあるが、流れがゆるやかで浅いので、向こう岸に渡れそうだった。
向こう岸では裸の子どもたちが遊んでいた。
「癒されるぅ」
俺たちは、しばし川のせせらぎに耳を傾けた。
向こう岸の子どもたちに手を振ると、俺たちはその場をあとにした。
時間を確認すると、午後1時を過ぎていた。
「少し急ごう」
「山頂はまだかな?」
綾香が不安そうな顔をしたので、俺は、「もうすぐだよ」と根拠のないことをつぶやいた。
もうすぐ山頂までの案内看板があるはずだ。
ひたすら歩いていると、道が二股に分かれていた。
そこには、案内看板が立っていた。
左に矢印が向いた看板で『道順』と書かれていた。
「こっちだ」
綾香の手を引くと、彼女は妙なことを言い出した。
「こういう矢印看板ってさ、アニメとかだと誰かがいたずらして逆にしたりするよね」
真剣な顔で見つめるので、俺はまさかと内心ビビっていた。
そんな心情を読み取ったのか、綾香は腹を抱えて笑い出した。
「龍二、かわいい。そんなことあるわけないじゃん」
「からかうなよ」
俺の腕をバシバシ叩きながら笑う綾香の横っ腹をこづく。
ふざけ合っていたら、背中に大きなカゴを背負ったおばあさんが俺たちの横をすーっと通って矢印の案内看板の前に立った。
俺たちはおばあさんを目で追った。
おばあさんは、矢印看板を引っこ抜くと、裏返して再び土に差した。
「誰かがいたずらしたんじゃろ」
そうつぶやきながら右に進んだ。
無言で綾香と目を合わせる。
「この看板おかしいよ。表も裏もどちらにも道順って書いてある。そんなことありえないでしょ」
俺はうなずいた。
「本当にアニメじゃん。どうするのよ」
綾香は、少し尖った声を出した。
「おばあさんは、右に進んだんだから、誰かが本当にいたずらしたんだよ。おばあさんは地元の人のようだし、信じて右に進もう」
綾香は、その場を動かなかった。
「いや、左だよ」
真剣な顔つきの綾香に俺は息をのんだ。
「どうして?」
「あのおばあさん変だった」
「どこが? 普通のおばあさんだったよ」
「分からないけど、変だったよ。それにどうして人がいないの? あんなににぎわっていたのに、ハイキングコースで誰とも会わないなんて変よ」
確かににぎやかだった午前中を思い出すと人の数が少ない。
会ったのは、おじいさんとおばあさんと子どもたち。
彼らは、レジャーでおとずれたのではなく、地元民のようだった。
コースの周りはうっそうとした木々に囲まれているが、ずっと道なりに進んできたので、迷ったということもあり得ない。
「もうすぐ頂上のはずだから、とりあえず左に行ってみよう。距離がありそうだったら戻ればいいんだから」
綾香は黙ってついて来た。
頂上に到着すれば、たくさんの人がいるはずだ。
俺たちは寄り道しすぎて遅れているだけだ。
「やっぱりおかしいよ、龍二。下山する人とすれ違っていない」
それは俺も思ったことだった。
立ち止まった俺たちの前に案内看板が見えた。
『光まであと5メートル』
「光ってなに?」
「頂上のことじゃないか?」
俺はつとめて明るい声を出した。
コースの先を見つめると、空が見え、明るい陽射しが降り注いでいた。
「ほら、頂上だよ」
綾香の手を取って急ぐ。
そのとき、綾香が大きな声を出した。
「待って!」
綾香の視線の先には案内看板があった。
『天国まであと2メートル』
コースの先を見る。
2メートルなんてすぐ目の前だ。
しかし、まぶしい光で先が見えない。
天国? やっと頂上に着くという意味の天国なのか、それとも……。
「戻ろう」
俺たちは足早に来た道を戻った。
息を切らす俺たちのあとを追うように山の木々がざわめいた。
一本道しかないのに、誰とも会うことなく、ハイキングコースの入口にたどり着いた。
来た道を振り返ると、多くの人々が下山していた。
綾香はぼそりとつぶやいた。
「右に進んでいたら地獄だったのかな?」
汗で冷えた身体に鳥肌が立った。
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