タクシー運転手

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タクシー運転手

悪態をついた乗客が立ち去ると大きなため息が出た。 わざと遠回りしたから半額にしろと、散々文句を言われて、丁寧に断ると、乗客は座席を蹴り上げた。 あきらかに年下のスーツ姿の普通のサラリーマンなのに、客という立場を利用し、こちらを見下している。 私としては、お客さんだから低姿勢で頭を下げているだけで、街中でケンカになったら負けない。 タクシー運転手はストレスが溜まる。 いろんな人がいて、どんなに嫌な人でもこちらは客を選ぶことができないのだから。   扉を閉めようとしたところに、一人の客が滑り込んできた。 全身黒ずくめの男で、キャップを目深にかぶっていた。 「前の車を追ってくれ」 男はドラマのようなセリフを吐いた。 私が戸惑っていると、男は叫んだ。 「早く!」 前には、白のミニバンが走り出したところだ。 タクシー運転手になって30年。 初めての行き先だった。 ドラマや映画でよく聞くセリフをまさか自分の耳で直接聞くとは。 なぜか心が躍った。 「お任せください」 車を発進させると同時に自分の口が動いていた。 腕が鳴る。 運転が好きでタクシーの運転手になったが、毎日人との関係に疲れるだけだった。 久しぶりに感じた高揚感。 さっきまでの気分の悪さは吹き飛んでいた。   車は高速に入りスピードを上げた。 タクシーは、ぴったりと張りつき、あとを追う。 バックミラー越しに映る乗客は、身を乗り出して前の車を見ていた。 「前の車を追ってくれなんて、初めてですよ。何かあったんですか?」 好奇心が抑えられなかった。 「無銭飲食ですよ」 「そりゃ、大変だ」 絶対に逃がしてはならない。 私は、ハンドルを握る手に力を込めた。 「っていうことは、お客さんは、何かお店をやられているんですか?」 「うなぎ屋だよ。知らない? 駅前の有名なうなぎ屋」   飲食店には詳しいが、客の言う店は聞いたことがなかった。 「とっ捕まえたあかつきには、ごちそうするから来てよ」   車は、スピードを上げ、次々と他の車を追い越した。 カーチェイス。ここが腕の見せ所。 背後にぴったりとくっついて、1ミリも離されない。 「さすがだね。運転手さん」 「もう30年もやってますから。絶対に捕まえてやりますよ」 ほめられてテンションはますます上がる。 これが私のやりたかったことだ。 人に頭を下げることじゃない。 このスリルがたまらない。 制限速度を越えていたが、そんなことは構わなかった。 使命感に燃えていた。   車の運転手は若い男だった。 助手席に女もいる。 若いのになかなか運転がうまい。 しかし、こちらは運転のプロだ。 逃げられないと悟ったとき、平身低頭わびるだろう。   犯罪者を追いつめ、警察やうなぎ屋の店主にも感謝され、男は私の運転技術にこうべをたれるのだ。   そんな想像にほくそ笑んでいると、あることに気づいた。 追っている車にステッカーが貼られている。 ステッカーにはベイビーの文字があった。 実際に赤ちゃんが乗っているのかまでは判別できない。   しかも、バックガラスにはぬいぐるみが並べてあった。 そうなると、男と女ではなく、お父さんとお母さんという風に見えてしまう。 そんな人物が無銭飲食をするのだろうか。 「前の車には男と女が乗っていますが、家族で無銭飲食ですか?」 バックミラー越しの店主は、こちらを見ずに答えた。 「若い夫婦だよ。今どきの若いもんはこれだから、まったく親の顔が見てみたいよ」   家族のある者が無銭飲食をするというのも驚きだが、無銭飲食をタクシーで追いかけるこの男の執念もすごい。 店主のキャップの下をのぞこうとしたが暗くてよく見えなかった。 とにかく、どんな人物であろうが、無銭飲食は許せない。 タクシーの踏み倒しと一緒だ。 私も何度か経験があるから、店主の怒りは理解できる。   店主の怒りが、自分のことのように思え、スピードを上げると、前の車に幅寄せした。 運転手の男は、怯えた目でこちらを見た。 クラクションを鳴らし、停まるように促すが、男はスピードを上げて逃げた。 「高速おりるぞ」   店主が叫んだ。 とうとうあきらめたか。 プロの運転に怖気づいたにちがいない。   高速をおりたところにパトカーが停まっていた。 「店主、よかったですね。警察が待ち構えていますよ」   タクシーを停め、窓を開けると、警察官に敬礼をした。 「タクシーがあおり運転とは、一体何を考えているんですか?」   警察官は、私に向かってそう言った。 「いやいや、確かにスピードは出しすぎました。しかし、私は犯罪者を追いかけていたんです」 「犯罪者?」 「ええ。無銭飲食ですよ。お客さんに頼まれましてね。前の車を追ってくれなんてドラマみたいなセリフを言われたもんですから、私の血が騒ぎましてね」 後部座席を目視した警察官は、眉をひそめた。 「どこに乗客がいるんですか?」 振り返ると、客が消えていた。
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