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 Café La Rotondeカフェ・ラ・ロトンドの熱気には、流行りの音と煙草の煙と赤葡萄酒の香りが混じり合って充満している。心地よいリズムを求めて踊る男女の体は密着し、座って眺める客たちは葡萄酒の合間にキスを交わす。十九世紀末の狂気が巴里だけに巣食って、窓の木枠の隙間からカフェの空間に充填し塞がれたようだ。この病的な熱情が、永遠を決して約束されない刹那の不文律であることを、誰もが気付かない振りをして踊っている。  すでに客で溢れかえるカフェに、また一人入ってくる。端正な顔立ちが、茶のビロードのジャケットを更に洒落て見せる。優雅な容姿は買えるものではなく、男が天から授かったものであるのは疑いがない。 「Edoardo! こっち!」  店の隅で安酒を囲む男たちが手を挙げて彼を呼ぶ。Edoardoエドアルドは、ぐらつく木の椅子に無造作に体重を預け、左手の指先に煙草を挟んだまま、誰のグラスかもわからない葡萄酒を一気に飲み干した。 「ボロフスキーが入選したって知ってるか?ユダヤ人なのにな。」  人差し指でテーブルを小刻みに叩き続けながらGabrieleガブリエーレはそう言うと、エドアルドの反応を待った。ガブリエーレの人懐っこい顔が、心配そうにエドアルドを見つめる。美術アカデミー・クラロッシの仲間たちは、この話で持ちきりだった。 「じゃあ、ボロフスキーに乾杯だな。」  エドアルドは、グラスに並々と葡萄酒を注ぐと乾杯の仕草をして、また一気に飲み干した。気の抜けたエドアルドの返答がガブリエーレには面白くなかったが、いつも通りのやり取りに腹も立ちはしなかった。薄くなってきた髪の毛を撫でて、ガブリエーレも葡萄酒を一口流し込む。  フィレンツェにほど近い小さな町で、エドアルドは銀行家の父親と教師の母親の長男として生まれた。ユダヤ系イタリア人の家系だった。三人続いた女児のあと、待望の男児エドアルドは幼い頃から愛くるしく、成長するごとにその美しい顔立ちに誰もが惹きつけられた。彼は自ら意図せず誰からも愛される少年に育った。母親が十歳の時に急逝するまで、彼の人生には一つの陰りもなかった。  十八歳の時、エドアルドは逃げるように巴里にやって来た。抱えきれなくなった長姉への罪悪感と郷愁と愛慕を体から拭い去るように、力づくで巴里を目指した。長姉の訃報が届いてから半日も経っていなかった。長姉のGretaグレタは一人病院で息を引き取った。
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