一章

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そのまま、私をゆっくりと立ち上がらせると、神楽坂さんはホテルの近くにある古い喫茶店まで歩いて連れていってくれた。  神楽坂さんは車通勤なのに、私が警戒しないようにと気遣ってくれたのだと思う。  夕方の時間を過ぎ、こじんまりとした店内にはオレンジ色の柔らかな明かりが灯っていた。  異国のアンティークの小物に溢れた店内は静かで不思議な雰囲気に包まれている。  遠い昔の古い玩具箱の中のような、誰かの深い夢のなかのような、時間と現実の境界がわからなくなる空気感。  バッグと一緒に隣に置いた活き活きとした花束のコントラストが、場違いのようにやけに眩しく見える。  テーブルの上には、香ばしい良い匂いのコーヒーが二つ運ばれてきた。  神楽坂さんがコーヒーカップを持つと、柔らかなソファーがかすかにぎしりと鳴った。  私たちの他にお客は居ない。耳を澄ませると聞こえるオルゴール曲は、知らないものだ。 「あの……ありがとうございます」  神楽坂さんの背中を見ながらここまで歩いてきて、完全に思考が停止した頭がゆっくりまた回転を始めた。 「いえ。退勤してホテルから出たら、高梨さんがうずくまっていて驚きました」 「ですよね。私も、スタッフが駐車場でうずくまっていたら驚きます」  崩れたメイクが気になるけれど、直す気力がわかない。神楽坂さんみたいな素敵な男性の前でもそう居られるのだから、ショックは相当受けているんだろう。  まるで他人事のように、自分を分析する。  琥珀色の熱いコーヒーを一口飲み、食道で熱さを感じながら覚悟は決まった。  私より十歳以上年上の神楽坂さんなら、人生の先輩として聞いてくれるだろう。  そのまま聞き流して、忘れてしまっても構わない。  今更誤魔化せないし、誰かに聞いて貰って、頭の整理と荒らされたであろう部屋に帰宅する覚悟を持ちたかった。 「神楽坂さん」 「はい」 「……私、今日付で退職した身ですが、聞いて貰えますか?」  神楽坂さんの瞳は、話を聞いてくれようとまっすぐに私を見ている。  そういえば、神楽坂さんの顔をちゃんと見るのは今日二度目だ。  退職する私に、神楽坂さんさんの方からわざわざ午前中に挨拶にきてくださった。  私もしっかりと前を向き、自分にも言い聞かせるために全てを話始めた。
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