一章

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「……短い期間でもいいので、結婚していたという事実が欲しいのです」  あえて、好きかどうかの質問の答えをはぐらかされた気がする。 「結婚していた、事実ですか」 「そうです。お恥ずかしながら、僕はこの歳まで人を愛したり、愛されたりという中で生まれる喜びを知りません。正確に言えば、それが分からない人間なのです」  この世にはたくさんの人が居て、それぞれに事情を抱えていたりする。  神楽坂さんが抱えるものの全部を理解する事はいま出来ないけれど、そういう人も居る事実は受け止めたいと思う。  喫茶店には、相変わらず誰も入店してこない。  非現実的な雰囲気の漂う喫茶店は、現実的ではない話をする私たちの為に用意された舞台装置みたいだ。 「この歳で独身でいると、周囲がなにかと騒ぎます。中には出世に支障が出ると言う人や、紹介しようと勝手にセッティングを進めようとする人もいて」  ……正直、困ります。と、神楽坂さんは凛々しい眉を下げた。 「あの、神楽坂さんて、おいくつなんですか」 「今年で三十八になります。先月、誕生日でした」 「本当に……ごめんなさい、こっそり彼女さんとか居ないんですか」  総支配人でなかったら、俳優にでもなれそうなルックスは宿泊客やスタッフの羨望の的だった。  いつも冷静な佇まいで笑顔を見ることは無かったけれど、厨房にもしっかりと気を配ってくれる姿勢は皆の憧れだった。 「いません。もしそういった人間関係が自分で築けていれば、事態も違っていたでしょう」  
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