一章

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神楽坂さんは先に喫茶店を出ると、ホテルまで車を取りに行き私を乗せて自宅まで送ってくれた。  お願いして、一緒に部屋に入ってもらう。  真っ暗な部屋に明かりをつけると、予想外に荒らされていなかった様子に安堵する自分がいた。  通帳を隠したクローゼットの扉は開いていて、中にしまってあった季節外れの衣料をしまった袋と、鞄の箱が出され床に無造作に置かれていた。  その残された生々しい光景に、ここで妹が通帳を開いている姿が安易に想像ができる。 「……ピンポイントで通帳を持っていったみたいです。行動が読まれていて悔しい……腹立つ」  その日初めて、私は事態に対して悪態をついた。 「高梨さんは、自分の行いを後悔するより、そうやってもっと怒ったほうがいい」  神楽坂さんはそう言うと、片付けを手伝うと申し出てくれた。  私はそれを断って、「すぐに済むから大丈夫です」と床にあるものを、クローゼットへぽいぽい放り込んだ。  見た目だけなら、今朝家を出た時と変わらなくなった。クローゼットの中はぐちゃぐちゃだけど。 「しっかり整理まで始めたら更に落ち込みそうなので、今夜はとりあえずこれで」 「それがいいと思います。もし、何かあった時には連絡を下さい。いつでも駆けつけます」 「そう言ってもらえると……なんだか安心します」  その場で連絡先を交換すると、神楽坂さんはスマートに帰っていった。  その夜は、一度に起きた色々なことに対して再度怒ったり泣いたりして、そのまま眠れず明け方になってしまった。  だんだんと白み始めるカーテンの向こう側、かすかに聞こえ始めた朝の生活音を聞きながら喫茶店でのことを思い出す。  ホテルでは遠巻きに眺めるだけだった、神楽坂さん。  かっこいいと思っていたけど結婚指輪をしない人も居るし、まさか独身だとは夢にも思ってもみなかった。  遠い存在だった神楽坂さんと、結婚……一年間の偽装結婚だけど、ホテルの皆は驚くだろうな。  でも、一番驚いてるのは私だと、心の中でなら言ってもいいだろう。  実は全部、大掛かりなドッキリ企画だったらどうしよう。  妹は、三百万円持って「お腹すいた」なんて言いながら帰ってくるのかな。  そうして妄想しているうちに、処理能力がオーバーヒートをおこしていた頭が冷えて、すとんと眠ってしまった。  
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