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一章
人間、受け止めきれない出来事が起きると、心を守る本能が働くのか頭がぼんやりとしてしまう。
どうして? なんで? と考えても、答えは手のひらに収まるスマホに示されている。
『いつか絶対に返すからね、 ごめんね』
昔から金遣いが荒く、何度も借金を立て替えてくれた実家からついに追い出された二つ年下の妹が、私の部屋へ転がり込んできたのがつい先日。
確か今朝は、私がバタバタと出勤の支度をしているなかでも、ソファーで頭からタオルケットをかぶってぐっすり寝ていた。
そんな妹からの、胸がざわざわする不穏なメッセージ。
仕事が終わり、疲労が体にじわじわ侵食する時間帯。
従業員出入口のドアを開けた瞬間に感じる、陽が傾く夕方の空気に気が抜ける瞬間だった。
すぐに頭に浮かんだのは、私の貯金通帳と印鑑とカード。万が一の為に小さなポーチに入れて、妹の目に触れないようにクローゼットにそっと隠していた。
メッセージを確認したあと、すぐにそのままスマホに入れてある銀行のアプリを起動した。
心臓が気分が悪くなるほど、ドキドキと鼓動を打つ。胃液もせり上がりそう。
残高は、五百八十円。
一度アプリを閉じて、もう一度確認してみても、五百八十円。
信じられなくて、訳もなくスマホの電源を切ってみたあと、また確認しても。
残高は五百八十円のままだった。
私が独立して洋菓子店を始める為に、学生時代からバイトを掛け持ちしながら必死に貯めた大事な三百万は、『いつか絶対に返す』という、どうみても信用ならないメッセージを残した妹と一緒に消えてしまった。
私、いま、どんな顔をしているんだろう。
「……嘘でしょ」
たったいま、わいわいと職場の皆に晴れやかに送り出されて退職したばっかりで。
『頑張ってね』と沢山温かい言葉を掛けられて、両手で抱えるほどの素敵な花束まで貰ったのに。
夢と希望を胸に、パティシエとして働いていた高級ホテル『sakazaki』から一歩踏み出したら。
いきなり奈落の底に繋がる穴に、私、高梨琴里は背中を押されて突き落とされてしまった。
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