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涙
「行って参ります」
義理の父母に丁寧に頭を下げてから、捨太郎はひとり新制中学校へと向かう。彼自身、丸眼鏡をし、下ろしたての学生服に身を包んだ新一年生である。
台地にある柊木町を出て、坂道を下へ下へ。森がある。湿っぽい空気のそこへ踏み入ると、朝でも重たげで薄暗い。
やがて左手に見えてくるのは、蔦やら蜘蛛の巣やらが幾重にも絡み合い、ひときわ鬱蒼とした茂みだ。この奥には、「さきちが淵」と呼ばれる深い深い水たまりがあるという。
水場が近いせいか、どことなくぐずぐずとした地面のままで森は途切れた。右前方に現れるのが、香澄市立第二中学校である。
校門を通過する前に、捨太郎はふと西を見上げて立ち止まった。
柿実町の方角だ。同じ香澄市でも学区外の町。ゆえに、目視できるわけでは全然なかったが、その方向は朝日を浴びて燦と明るい。
――三年前の三月十日、東京へ向かう途中だったB-29の群れ。手違いか、あるいは機体の不具合か、ただ一発の焼夷弾が落とされた町。それによって、幼い姉妹が犠牲になったという。……
「僕は、その子達の夢を見ているのだろうか……」
何の縁もなく、顔も知らない。少し噂に聞いただけ。だというのに、町を見据える捨太郎の両目を、しとしとと涙が濡らし始めた。
知らず、いつしかじっと俯いて黙祷を捧げている。……
やがて、鼻を啜りながらも直り、水滴の付いた眼鏡を外した。固い袖でレンズをちょんちょん拭っている時、後ろから鋭く背中を小突かれた。
「ねえ。邪魔なのよ」
「あっ、とっ、ご、ごめん」
あたふたと眼鏡をお手玉しつつ脇に下がる。
そんな捨太郎を、学級委員に決まったばかりの土屋宥子が一瞥し、つんと通り過ぎていった。随分と早い登校だが、たぶん教室で予習でもするつもりなのだろう。
「……ううむ。そうだ。僕も勉学をがんばらなければ!」
宥子の後ろ姿を見送るうち、捨太郎はたちまち気を取り直し姿勢を正した。
耳の下でふたつに結わえた黒髪の、今日もきっちり櫛で分けてある後頭部……同級生のそうした佇まいが励みになったのかもしれない。
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