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何の音なのか即座にわからないのは、ごく小さく聴こえたからというのもあるだろう。が、純粋に、聴き慣れない音であるゆえにという感じもする。
背後から聞こえるようだった。捨太郎は首だけで振り返った。
やはり誰もいない廊下で、何の異常も見受けられはしない。……のだが、音は突如として格段にはっきりとした。
――パカッ、パカッ、パカッ、パカッ。
すぐ近くから聞こえる。
頭の後ろから聞こえる。
「うわぁっ!?」
驚愕と共に勢いよくのけぞり、そのままビタンと尻餅をついた。
片耳を塞ぐ形で手を当てている。
まさかそんな。こうした建物の中で、廊下で、そういう音が。尋常の事態ではない、聞こえるわけがない、ああああ聞いてはいけない……そんな本能の訴えを体現するかのように。
「はぁーっ……はぁーっ」
着物の内側が剣山のごとく総毛立っていた。耳に当てた手も、床についた手も、抑えられない震えに支配されている。
この音は。
この音は、鼓膜で拾っているわけではない……。砂のような生唾を飲み込みながら捨太郎は悟った。
氷の塊を突っ込まれた心地がするのは、耳ではない、後頭部だ。頭で聞いている、脳に響いている……これは、これは、現実の音ではないのだ。
――パカ、パカ、パカ……パカ。
耳で聞いているわけではないのに、くっきりと遠近感がある……どんどん近づいてくる。そのことに心からゾワリとし、混乱もまた加速してしまう。
狼狽しつつも、それが。その足音が。何らかの動物の蹄の音が。ついにこの身の傍らまで辿り着いてしまったのを、捨太郎は認める他なかった。
大きく傾いた瓶底眼鏡が、鼻周りの汗で更にずり落ちていく。下半分だけ明瞭な世界。それなのに全視野で平等に見たのは、やはり、目ではなく頭で見ているからなのだろう。
――楕円形をした首の断面図。
「……」
半ば失神しかけの捨太郎の目の前で、それは四肢を踏み揃え、ブルッと鬣を靡かせた。
全体に、うっすらとした青白い靄を纏う様相。かつ、首からざくりと切れているのだから顔もないのだが、その体躯は明らかに馬であった。命無き者の、あり得ざる登場の仕方であった。
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