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馬にしてみれば、失っているのは頭部だけで、四本の脚は元気に動くのだから、もっと早い移動はいくらでもできるのだろう(この一文だけでも、この世の法則を無視しているような、準拠しているような、全く以ておかしなことなのだが……実際、現れた時はパカパカと駆けていたのだから、この予想でいいはずである)。
だというのに、ハイハイ歩きの捨太郎を追い越すではなく、いつまでもまとわりついているのは、彼に向けて何かしようとしているからに他ならなかった。
口を持たないからには、噛んだり食ったりはしないのだろう。代わりに、踏んだり蹴ったりしてなぶり殺すつもりだろうか。
そう、今はただ、子供が捕まえた虫をいたぶって遊んでいるのに似た時間なのかもしれない。……
「いやだなぁぁ……ぐぬぬぅ、ぅぅ~……」
泣きに泣き泣き、両手両膝をゴツゴツと痛めながら、どうにか脱衣所に到着した。ついさっき、魁と連れ立って弾むように来たのが遙か昔のことのようだ。
湿っぽい部屋に這い入る。この先には風呂場しかない。湯舟側の壁に小さな窓が付いているとはいえ、しっかりと格子が嵌められており、ここから逃げられる望みはない。
当初の目的地であったとはいえ、なおここを目指したのは浅慮だったのではないか。悪手ではなかったか? 追われる身でありながら、自らこうした袋小路に入るのは。――そう分析し、激しく警鐘を鳴らす捨太郎もいるにはいる。しかし、それでも。……
「う、う……」
棚を頼りに、赤ん坊時代の掴まり立ちを思い出すみたいにして体を持ち上げた。無防備なその間、首無し馬に何かされるのだとしても、もはや求めるものはひとつだけだった。
頭上にあった四角い籐の籠が、ゆっくりと舐めるように顔に迫る。表面の編み目を追い越し、縁が眼下に来て、ようやくその中身と対面を果たす。
「……」
洗った学生鞄から取り出しておいた弁当箱、水筒、教科書、筆記用具。そして、最も丁重に置かれているのは、「香澄史調査 中世後期」と手書きされた古いノートだ。
「牛島義陽」――その署名をしっかりと認めたその瞬間、睫毛の先で震えた大粒の涙。シャボン玉のようにくるりと光って、ほんの刹那、幼い日の光景が色濃く蘇る。
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