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『――捨太郎!』
坂の上の、背の高い人影。白い太陽を背にしていたから、顔はほとんど見えなかった。
それでも、あんなに明るく名を呼んでくれたからには、満面の笑みであることは伝わってきた。
出征の日だった。
笑って、大きく手を振った国民服の青年。この国、この土地の歴史研究に青春を捧げた人。おそらくは、自身はもうこの地に帰還できないと悟っていただろうに。――
「お兄ちゃん。……」
膨らんだ涙がついに決壊した。眼鏡に溜まっていた水滴とも合わさって、なお零れ落ち、ぱちんとノートの表紙を叩いた。
銃弾の痕じみた形に濡れてしまったのを、着物の袖でそっと拭う。
「……」
捨太郎自身、今、生涯最後の発見をした思いだった。
生命の危機に瀕した時、走馬灯というやつは、もっと色々なことを思い出させるのだろうと考えていたし――中でも、この世に残してしまう生みの両親、義理の両親のことが胸中を満たしそうなものだった。
が、実際に思いを馳せたのは、八歳の時に別れた長兄の姿だった。籠の中に置きっぱなしにした形見、「香澄史調査」のことだった。捨太郎は、自分が思うよりもずっとずっと、義陽という故人のことが好きだったらしい。
ただし――。
慕っていたからといって、今。会いたかったとか、ようやく会えるとか、そういうしんみりとした気持ちでは全くない。
ああ――必要だと確信した。
あの長兄の素晴らしい知恵が。
輝くばかりの朗らかさが。
……強さが。
今、どうしても捨太郎に必要なものである。
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