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 すっかり言葉に詰まった捨太郎を救ったのは、担任教師が戸を開ける音。つまり一限目の開始時間であった。  全員慌ただしく席に着き、教科書を取り出す。そうしながらも、蜂矢魁について、担任たる定由(さだよし)倉吉(くらよし)教諭から何かしら説明があるのではという期待の気配はあった。  しかしそういうことはなかった。無精髭の中年教師はおもむろに、「川釣りに行きてぇよ」とだけ呟き、あとは平然として数学の授業を始めてしまった。  新制中学校の、ひいては義務教育の延長が整備されてからまだ間もない。ここ香澄(かすみ)市には激しい空襲がなかったため、ひとまず旧制中学校や女学校の校舎を流用することこそできたが、一家離散したとか、貧困により働きに出るしかないとか、そういう事情で学校に来ない者はどうしてもいる。  逆に言えば、そう珍しいことでもない。説明がないということは、魁がやや遅れて現れたのも、そうした背景があるという意味なのかもしれない。ひとまずこう結論づけ、捨太郎も勉強に身を入れることにする。  ……だが。肝心の人物、隣の席の魁は、この教室において最もその気がないようだった。  鞄や机から何を取り出すでもなく、相変わらず窮屈そうに座ったまま。大きく頬杖をつき、ただただぼんやりと捨太郎の方を眺め続けている。  そのまま何分も経過してしまった。ちらりと目配せすれば、魁は、捨太郎をというよりその机上を見ているらしい。 「……ええと。蜂矢君、もしかして教科書がないのか」  定由教諭が長い板書をする隙を突き、小声で確認してみた。恐らくそうだろうという見込みで、教科書をそっと彼の側に押しやってもいる。  しかし、魁のくっきりした眼差しは微動だにしなかった。そこで捨太郎は、彼が教科書の文字ではなく、本当にただこちら側の「机」を見ているのだと気がついた。  どうしたのだろう、妙な落書きでもしていただろうか。落ち着かない気分で木目を撫でる。  すると、手の平に予想以上の温かみ。甲の皮膚には、焼けるのではないかというほど強い日光が窓越しに降り注いだ。その様を魁は無言で見つめ続けている。捨太郎は「あっ」と思った。……
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