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1.最悪の日
その日雨が降らなかったならば、もっと言えば雨宿り先としてあのカフェーの軒先を選ばなければ、おれは彼女に出逢う事は一生なかったかも知れない。
「私、決めたんです。この先どんなに世の中が変わっていっても、絶対一人で生きていけるようになろうって」
ほんの気まぐれにこちらが注文したバニラアイスを、遠慮がちに口に運びながら見せた笑顔を見ているうちに、腹はもう決まっていた―と思う。
*
「―お皿洗いでも何でもやります。最初のうちはお給金なしでも構いませんので、どうか働かせて頂けないでしょうか!」
今日何度目かわからない台詞を口にし、この日のために前の日から虫干しをしておいた、ひわ色の着物の袖をぎゅっと握り締めて、決死の思いで頭を下げる。
なけなしのお金を叩いて横浜から有楽町まで電車賃を使ってここまでやって来たのだ。その努力を実らせたい。だけど次の瞬間、支配人の口から出たのはため息だった。
「でもねえ~…学歴があるっていっても女学校中退してるし…第一あんたいくつだい?」
「じゅうな…16です!」
本当は今年のお正月に17歳になったばっかりだったけど、この業界では少しでも若く見られた方が採用に響くって女学校の同窓だった千代子が言っていたのを思い出す。
「…悪いけど、女給さんなら間に合ってるんだよ。今日だって、午前中だけで10人は来たんじゃないかな。―それに16だったら無理に女給なんかしなくても嫁にでも行けばいいでしょ」
支配人はそう言ってサスペンダーで留めたズボンの前を窮屈そうに撫でた後、ドアの方へ犬を追い払うような仕草をした。
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