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僕は子供のころ、"くろいかいぶつ"と一緒にいた。
名前は知らない。どこからやってきたのかも覚えていない。気づいた時にはそばにいて、一緒に生活していた。
黄色い目玉に黒い身体。形はグニャグニャとうねって定まらない。だから僕は"くろいかいぶつ"と呼んでいた。
かいぶつはアイスクリームが好きだった。バニラ味のアイスクリーム。ことあるごとにそれを欲しがった。
決して多くはないお小遣いをなんとかやりくりして、僕はかいぶつにアイスクリームをあげた。一カ月に一回。
かいぶつは人間ほど頻繁に食事をしなくてもよかった。僕があげるアイスクリームだけで何の問題もなく暮らしていたのだから。
もしかしたら、別のところで何か食べていたのかもしれないけれど、そのあたりはよく分からない。
ともかく僕の知るかいぶつは、バニラ味のアイスクリームをとてもおいしそうに食べていた。かいぶつとの生活は、僕が11歳になるころまで続いた。
***
かいぶつは、突然いなくなった。理由は分からないけれど、いなくなってしまった。僕の心の中には妙な空白だけが残った。それを埋めようと、空白の外側どうしを引っ張ってきてくっつけても、すぐに剥がれてしまう。
夜、布団の中に潜り込んで、ふたりで空想した、この世界の不思議や冒険の数々。
あのころのワクワクしていた感情と一緒に、僕は取り残された。
口元についたアイスクリームをなめ取るときの幸福に満ちた顔。ふたりで駆け回った雑木林と、土の匂い。
記憶のいたるところにかいぶつの姿が見え隠れして、どうにも落ち着かなかった。
***
それから月日は流れて、いつしか僕は大人になっていた。
職場と家の往復。だいたい同じことを繰り返す日々。かいぶつの存在が薄れても、一つだけ習慣になっていることがある。
バニラ味のアイスクリーム。
月に一度、買って食べることにしている。かいぶつのことを忘れないため、というよりかは、ただの惰性でそうなっているだけ。なんとなく、だ。
家の最寄り駅から歩いて帰る。途中のコンビニでアイスクリームを買って、行儀悪く食べながら。
ふと、道の脇に、何か黒い影がちらついた。
何だろう? と思って影を目で追うと、それは猫だった。
白と黒のまだら模様。口元と手足が特に真っ白になっている。
……まるで、アイスクリームを食べた後みたいな。
そぅっと近づいてみる。逃げる気配はない。そのまま、ゆっくり、ゆっくりと近づいて──。
捕まえる。
しっかりと、身体を支えるようにして持つ。
驚くくらいに静かな猫だった。野良猫なら一目散に逃げだしてもおかしくはないはずなのに。
それにしても、少し持ちづらいな。猫からしても居心地が悪いかもしれない。もうちょっと持ちやすいように抱え込もう。
やけにおとなしい身体を持ち上げようとした時、ふわりと、嗅いだことのある匂いがした。
バニラの匂い。かいぶつが、僕のそばにいる時に漂わせていたのと同じ匂い。
懐かしい記憶がいくつも蘇ってくる。僕は思わず、小さな声で囁いた。
「かいぶつ?」
腕の中の猫は、耳だけを器用に動かして、こちらの声を捉えた。反応はそれだけ。そうだよ、なんて喋り出すこともない。
「また、あいにきてくれたの?」聞いてみる。
気のせいかもしれないけれど、腕の中で猫が重くなった気がした。その微かな変化に対して、うん、そうだよ。と言ってくれているのではないかと、都合よく解釈する。
頭をそっと撫でる。
猫はすぐさま頭をぶるっと震わせる。僕はそれに驚いて手を離す。
「あ、ごめん」
僕がそう呟くのと同じぐらいのタイミングで、猫は大きくあくびをした。
「あ」
その時、確かに僕は見た。
猫の尻尾が、生き物のそれとは異なる動きでゆらゆらと揺らめいて、ちぎれた一部がそっと空気に溶けていったのを。
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