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プロローグ
「――俺は実験動物じゃねぇんだぞ! なんで使えねぇ学生なんかに付き合ってやんなきゃいけねぇんだ!」
麻痺により左半身が思うように動かなくなった、中年の男性患者さんが叫ぶ。
リハビリに行く為、ベッドから車椅子に乗り移るのを俺が手伝おうとした瞬間にこれだ。
ベッドに座ったところから、立ち上がる介助の為、脇に手を入れると、烈火の如く怒鳴り始めた。
真正面で怒鳴られ、鼓膜がキーンと痛む。
この荒れているのが病気で感情の制御が出来なくなったからか、元々の性格なのかはわからない。この患者さんとは初対面な上、カルテなどもケースバイザーさんから見させてもらえていないから。
俺がこの患者さんについてわかるのは、見た目から脳卒中か何かで左半身に麻痺があって、不自由なんだろうということ……。後は、男の実習生である俺が相当お気に召さないことぐらいだ。
「まぁまぁ、そう言わずに。僕を含めてみんな、同じように経験させて頂いて今がありますから……」
ケースバイザー――実習で担当する患者についてのアドバイスをしてくれる理学療法士が、猛る患者さんを落ち着かせようとしてくれる。
「ふざけんな! そんなもん、俺じゃなくても他にいくらでも入院患者がいるじゃねぇか! 女ならともかく、なんで男なんだよ。聞いてねぇぞ! おい、俺に触んじゃねぇ!」
ベッドに座りながら文句を言う患者さんが、右手をぶん回して俺の顔面を殴ってくる。
「……暴力は止めましょう。僕も学生なりにしっかり頑張りますから」
学生だって――俺だって人間だ。殴られたり暴言を言われればイラッとするし、イヤな気分にもなる。それでも、我慢しなければ……。
「うるせぇ!」
左半身が動かないだけでなく、体幹の安定性も悪いのか――ぐらっと左へ倒れそうになった。
「――危ない!」
慌てて肩を掴んで支える。ふぅ、なんとか事故を起こさずに済んだ……。俺は心の中でほっと息をつき、顔を上げる。すると目の前に患者さんの顔があることに気が付いた。
「危なかったですね。でも、倒れなくて良かったで――」
「――ふん」
患者さんは俺と目を合わせたかと思うと――。
「――ぺっ!」
「うわっ!? え、唾!?」
唾を吐きかけてきやがった。
「ちょっと、それはダメですよ!……仕方ない。今泉くん、やっぱり僕がやるから、顔を洗ってきて」
「おう、そうしろ! 二度と俺の前に来んなよ!」
俺はしばし、呆気に取られていたが、徐々に何をされたか理解し――沸々と怒りが湧いてくる。――完全に火が付いてしまった。いくらなんでも、もう我慢出来ねぇ!
「……患者だからって神様になったつもりですか? 自分は病気だからって――人に暴力振るっても、使えないゴミ扱いしても――顔に唾を吐いても! 何しても許されると思ってるんですか!?」
ギラリと、目の前の患者さんを睨みつける。
実習生だからと耐えてきたが、限度がある。言われたい放題、やられたい放題だった鬱憤を晴らしてやるよ! ああ、それで実習の単位が取れず退学になるというなら、それでもいい! 人として扱われないのを当たり前に受けいれろって言うなら、こちらから辞めてやる!
「今泉くん! やめなさい!」
「世の中の何も知らねぇクソガキが、大人に逆らうんじゃねぇ!」
「そんなもん、人をゴミ扱いして、顔に唾を吐きかけるような人に言われたくないんですよ!」
「今泉くん! どいて! あっち行ってて!――すいません、今すぐ僕に代わりますから!」
ケースバイザーの人に突き飛ばされるように、俺は患者さんから離れさせられた。
病室からズカズカと歩き出て、はぁと大きくため息をつく。途端に頭が冷えてきた。
「やっちまった……。でも、いいか……。俺がやりたかった仕事は――志していた仕事は、こんな人としての尊厳を捨てるものじゃない」
患者さんの良くなりたいって気持ちに応える為、リハビリに情熱を注げる。
そんなやり甲斐がある仕事に憧れていたのに……。
現実は、医師に指示された内容をこなす為、患者さんへ『どうかリハビリをしてください』とヘコヘコする姿ばかり見ている。暴言暴力をどれだけ受けても……。機械のように感情を殺して、指示された時間のリハビリをこなさなければいけない仕事だと、今までの実習でよくわかった。
「――高校球児だった時、ケガをしていた俺を、熱いリハビリで助けてくれた……。そんな格好良い理学療法士なんて……ほとんどいない。夢のない世界だ……」
高校卒業と同時に野球も引退した俺は、もう二度と情熱的な日々は過ごせないだろう――。
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