1章

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「――さて、まずは……どうして患者さんに暴言を吐いたのか。昴の口から教えてもらえるか?」  大学の面談室に案内された俺は、目の前に座る江原教授にそう尋ねられた。 「患者さんから暴力と暴言を受けて……。顔に唾まで吐きかけられて、ついカッとなってしまいました。ご迷惑をおかけしてしまい、すいませんでした」 「そのすいませんでしたを、患者さんには言えたか?」 「言えてないです、直ぐに退室したので……。もし残ってても、俺は謝らなかったと思います」 「なんで謝らない?」 「なんでって……。暴言と唾を吐かれた人が、吐いた側に『すいません』と謝る方が、よっぽど異常じゃないですか?――患者さんだから何をしてもいい、仕方ない。……先生も、そういう考えですか?」 「そこまでは言ってない。まぁ病気だから仕方ないとか、色々と背景はあるだろうから、ケースバイケースだ。――そういうことをしてしまうぐらい傷ついている人の心に寄り添うのも医療。そういう考えだな」  寄り添う、か……。  よく聞く文言だ。病院のホームページなど、至るところで寄り添うという綺麗事を見る。 「……俺には、江原先生のようには思えそうもありません。寄り添う心を持とう。一緒にリハビリして、良くしていきたい。こっちがそう思っていても……。相手が暴言と暴力で返してきたり、リハビリなんか意味がねぇとか……。やりたくないって言われたりするじゃないですか」 「まぁ、そういう場面が少ない仕事だとは言わないが……」 「……他の仕事、例えばですけど……。コンビニで店員が客に暴力振るわれて、顔に唾を吐きかけられたら、警察沙汰じゃないですか」 「…………」 「なのに、学生や理学療法士――医療介護現場では、暴言や暴力を受けるのは当たり前になっている。言い返すことすらも許されない。……その不条理が、どうしても納得出来ないんです」 「そうか……」 「そこまで自分を犠牲にして働くのに、正直、理学療法士って給料も低いし権限も低いじゃないですか。……一般大卒初任給の平均と理学療法士の初任給は、同じかちょっと低いぐらいで……。しかもそこから、年間千円ぐらいしか昇給しないとか。役職についても、そんな変わらないそうですし……」 「う~ん。最近の理学療法士は安く使われてるなって、俺たちも辛い思いになるんだけど……。しかし、よくそんな深い事情を知ってるな」 「三年生で行った臨床実習地の先生方に、給与明細を見せていただく機会があって……。正直、中堅の先生でも手取りが二〇万円に届いてないのには、ドン引きしました」 「そこは病院か、施設なのかとかにもよって差はあるが……。まぁ、副業もやって生活してる人が多いよな」 「その先生も副業してて、休みは週一だと知って……。それから、殴られても文句一つ言わず笑わなきゃいけないし、やり甲斐搾取のような労働状況。これに納得が出来ない自分は理学療法士に……。いや、医療介護職に向いてないって……。情熱を――やる気をなくしたんです」 「だから、急に成績も落ちたんだな……」 「そう、ですね……。正直、大学も辞めようかと思ってます。患者さんに寄り添って……。何されても許せる寛大な心がない。低賃金でも、やり甲斐があるから出来る。でも……やり甲斐を見失った。そんな俺には、向いてない仕事みたいなんで」 「大学を辞めるのはいつでも出来る。でも、せっかく四年生になるまで頑張ってきたんじゃないか。正直、勿体ないぞ」 「でも俺は、医療従事者としての心が……」 「寄り添う心を私は持ってます!――って学生のうちから言われても、怪しいぞ。先生は、現場に出てからもそうあり続けられるのかなって疑うよ」  そういうもの、なのだろうか。てっきり、俺には医療従事者としての素養がないんだと思っていたが……。江原先生の言う通り、学生ならまだ素養が欠けているのは当たり前で、それをこれから養っていくものなのかもしれない。 「……俺、変われるんですかね?」
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