廿九 予感的中

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「坊ちゃんは行かないんですかい」 「向こうから頼みに来るよ。それまでは動かない」  素知らぬ顔で、坊ちゃんは生卵を落とした鍋の汁を自分の椀に注いで、鶏の脂のしみたクタクタの葱と共にすすった。  その言葉どおり、しばらくするといきなり襖が開いた。 「お食事中すみませんが、旦那様が、あの廊下の厠へ来てくださいとのことです」  ちょうど俺が卵を落とした汁をすくったところだった。 (なんて都合だよ。)  溶いた卵の中に残った肉を見つけてしまった。半熟の黄身をまとった鶏肉がキラキラとしてやがる。  坊ちゃんと鶏肉を見比べ、結果、俺は坊ちゃんの冷ややかな目に屈した。 「へえへえ、行きますよ」  仕方なく坊ちゃんを抱え、女中の後について、以前小林が殺された廊下の厠へと急ぐ。  今度はいったい誰が犠牲になったってんだ、まったく……  廊下の先には、すでに藤田が来ていた。 「またお前らか」  わかりやすいなぁ、おい。んな、嫌な顔をしなくても良かろうが。 「おや、藤田さん。僕らは今日、ただのお客ですよ。たまたま臨時で小遣いが入ったのでね、贅沢をしてみようかなってね」 (よく言うよ)  我が店主ながら呆れた。  しっかり殺人を予見して予約を入れたくせに。しかも、その臨時の小遣いは、辻斬り事件解決のために協力を願い出た藤田からの袖の下じゃねえか。  藤田は舌打ちをすると、俺たちに背を向け、菱屋に問いかけた。 「この厠は事件が解決するまで使うなと言っておいたはずだが」  無駄に声が大きいのは相当苛ついているからだな。  小林さんが殺されてからすでに十と四日。辻斬りは逮捕されたが、廃人となってしまった三井からは何も聞き出せず、この厠の事件とかかわりがあったかどうかさえ不明で、不審者の目撃も全くない。  つまり迷宮入りってことだ。それなのに、またもや犠牲が出たとなりゃ、苛つくのも仕方がねえ。 「わかっております。ですからこうやって張り紙をしておいたのです」  確かに厠の戸には『立入厳禁』の紙が貼ってある。  でかい声で威圧された菱屋が、憮然と言い返す。 「店の者にも客にも、中庭に作った簡易の厠を使うように言ってありましたよ」  突然、坊ちゃんが割って入った。 「でも、厠の扉に板も何も打ち付けてはいなかったんだ。これじゃあ、だれでも出入りできるよねぇ」  その言い分にひやりとした。  それじゃあ、まるでわざと菱屋が戸を開放していたような言い草だ。案の定、菱屋が必死の形相で反論してきた。 「そ、それはっ、なにしろまだ賊が捕まっていないからですよ! まだポリスさんらが調べに来たりするかもしれないでしょう」  うむ、確かにそれも言い分としては正しい。  結局、発見者の小僧と菱屋の亭主、そして俺たちを残して、まわりに集まっていた野次馬は別の部屋へ集められた。   「で、此度はてめえが見つけたのか」 「へ、へ、へい」  かわいそうに、藤田に睨まれた小僧は、まるで自分が殺しかなにかを疑われていると勘違いしているらしく、青くなって震えている。 「だだ、だってさ、ずっと閉まっていたはずの厠の扉が開いていたんだもの、きき、気になってしまって」 「で、中を覗いたってわけだな」 「う、うん」  今は閉められている扉を、藤田が勢いよく開けると、ぶらりと力なく垂れる女の脚が目に入った。
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