四 厠事件

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 田町にある芸者置屋の芸者や半玉たちは尾白屋の常連客である。それにしても、とんだ大事に巻き込まれてしまったものだ。 「用を、用を足そうと、し、てぇ、なっ、ひ、ひっ」  説明しようと口を開いたものの、途中で喉から嗚咽が上がってきてしまい、まるで言葉にならない。 「用を足そうとして入って見たら、中で人が死んでいたってことを言いたいんだね」  坊ちゃんの代弁に、豆千代はまるで壊れたからくり人形のように、こくこくと何度も首を縦に振っている。 「しかし、あれ、急所を狙ったというよりも、声を封じたかっただけなのか、あるいは殺しに自信がなかった」 「ど、どういうことでしょうか」  坊ちゃんの言葉に首を傾げる菱屋。 「刺された場所は喉だよ。喉元の凹んだところは急所だからね。あの様子だと、即死だったと思うんだ。なのに、わざわざ目ん玉まで突いている。目玉の方が狙うのは難しい。だから後からとどめのつもりで刺したと僕は見るね。つまり、賊は喉を突いたけれど、それで死んだとは確信できず、不安になって一番柔らかそうな眼球の穴にも刺してみたって感じじゃないかな。心の臓を狙わなかったのは、賊の持つ得物が小さすぎたからだ。小さい武器で広い胸の真ん中を狙うのは意外と難しいからね。あの傷痕で見る限り(きり)のようなものだろう」 「なるほど」 「しかしあの様子、殺して間もないよね。豆千代さんの着物にも血が着いているってことは、さっきまで血が流れていたってことだもの。となると、まだ曲者は遠くへ行ってはいなさそうだ」  淡々と説明する冷静な声が、場の雰囲気を凍らせた。だが、俺には坊ちゃんが至極、楽しそうに見えて仕方がねえ。 「もしや、富田様には、賊が見えませぬか」  菱屋が期待のこもった目を向けた。しかし、 「それは無理ですね」  坊ちゃんはきっぱり言い切った。 「物探しは探したい人の念の色を頼りに、物の場所を探るのですよ。しかし此度の場合、仏さんが相手のことを探すとか知りたいと念じる間もなく殺された可能性の方が高いわけで、ここでは僕の神通力は役に……」  またもや坊ちゃんが黙り込んでしまった。ああ、また嫌な予感がする…… 「坊ちゃん?」  その予感を肯定するように、坊ちゃんが明るい声で提案する。 「菱屋さん、探ってみましょうか。この殺しの下手人を」 「はあ? 何言ってなさる! 坊ちゃんは貸本屋でありましょうが。いつから火盗改めになったのでございまするか」  普段はぞんざいな敬語しか使わないくせに、驚くやら腹立たしいやらが入り混じってしまって、やたら丁寧すぎる言葉遣いになった俺を、菱屋が目を丸くして見ていた。
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