序の序 尾白屋開店

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序の序 尾白屋開店

「新井、今日から店を開けるぞ」  坊ちゃんの一声に、俺とお絹さんは顔を見合わせる。 「今、なんと?」 「頭だけでなく、耳まで悪くなったのか。店を開けると言ったんだ。いつまでも絹の実家に頼ってもいられまい」  偉そうな口を叩く彼は、若干十三歳の少年である。  器用に右手と左脚を使って体勢を変えると、今朝俺が買って来た新聞を文机から引っ張ってきた。  坊ちゃんの脚はまともに動かない。小さい頃に患った病による高熱が原因で、命こそ取り留めたものの、その右脚は全く言うことを聞かなくなっていた。残った左脚も次第に筋力を失い、今ではほとんどお飾りのような物だ。  俺の主君であった酒井政平殿は、既に幕府の世が終わることを予見していたのか、息子の乳母だったお絹の実家である地本問屋を伝手に、この貸本屋を買い取って遺していた。貸本屋ならば、歩けない息子にでも務まると思ったのであろう。 「で、坊ちゃん、なんで今日からなんですかい」  坊ちゃんがさっきの新聞を俺の膝の前に広げる。  途端、部屋の隅で寝ていた白い子猫が目を開け近寄って来た。と思いきや、つきあわせた坊ちゃんの膝に乗って喉を鳴らし始めた。こいつはつい最近、お絹さんが拾って来た。  随分と肝の据わった図々しい猫だ。  坊ちゃんは膝の上の猫の額を撫でながら得意気な顔で鼻を鳴らす。 「ふん、新聞を読まなかったのか。とうとう政府が徴兵令を施行したんだよ」 「へえ」 「つまり、士族階級が独占していた軍事職に、百姓や商売人でも就くことができるということだ。これまでの主従関係が無くなるのさ。侍が消えるんだ。僕らももう、隠れている必要がないってことだ」  そう。酒井家は禄高がそれほど多くはないものの、代々文官として役を持つ立派な旗本の家柄であった。それゆえ幕府崩壊後は、ここ赤坂は田町にある貸本屋の離れにて隠れ暮らしていたのだが…… 「そうだな。店の屋号は『尾白屋』にしよう」  子猫を抱きながらほくそ笑む。 「へえ」 「それから、僕は酒井朔真(さくま)の名を捨て、お絹の家の名を借りる」 「はあ、まあ、その方が無難ではありましょうよ」  今更『賊軍だ』などと言いがかりをつけられ、捕まることもないだろうが、新政府の奴らに目を付けられたくはない。江戸城に勤めていた人間の中にも、戦が始まるや早々に尻尾を振って新政府軍に寝返った者は多いのだ。 「で、僕は『富田朔太郎(とみたさくたろう)』、お前は……そうだな、『二宮三四郎』というのはどうだ」 「その心は?」 「僕の名前が朔……つまり一を表す名だからだ。朔、二、三四」  自分で言っておいて、自分で「ぶふっ」と笑った。 「安直な……」 「名前など、ただの記号だ。安直な方が覚えやすい」 「はあ」 「では、三四郎。今から準備をするぞ。先ずは屋号の印を決めようぞ。お絹、実家に売れ筋の本と錦絵を揃えてくれと頼んでくれないか」 「はいはい」  にこやかに軽い返事を残して部屋を出て行ったお絹さんの後ろ姿を目で追いながら、小声で零す。 「言うて、また富田さんに頼るんですかい。本や絵の代金はどうするんでさ」  坊ちゃんはにやりとした。 「そんなの、僕がもう一つの仕事で稼げば何とかなるさ」
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