三十 おミネさん

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 検視していた巡査が厠から出て来て口をはさんだ。 「もちろん、殺された小林氏の足取りを洗い直さねばなりませんが、しかし、この状況。この女が殺しを悔いての自死と見て間違いないでしょう。首のほかに外傷もなく、暴れた様子もないですから、自殺の線が濃厚ですな」  ほら見ろ――と言いたげな目で見た藤田に、坊ちゃんが疑問を投げかける。 「そうかな。だって、眠らされて運ばれて首をくくられたってことだって考えられる」  その理屈に対して巡査が反対した。 「ですが、この遺体、まだ死んで間もない。つまり、朝から昼までの間に首をくくっています。これだけ下働きの者が行き来する廊下で、眠った人間を運べば目に付くでしょう。そもそも、菱屋さんも気付いていなかったんですよ」 「でも、彼女が首をくくった帯締には『パチン(どめ)』が無いんだ」 「ぱちんどめ?」 「ああ、三四郎は知らないかい? 流行っているんだよ。そもそもは維新の動乱の頃、志士らが馴染みとなった芸娼妓らへ形見として、自分の刀の小柄(こつか)目貫(めぬき)(こうがい)の装飾部分を、帯締めを結ぶための金具にして贈ったことが始まりだと言われている。刀なんてさ、技巧を凝らした工芸品も同じだろ。けど今ではすっかり無用の長物となってしまったからさ、意外と大量に出回っているんだよ。まあ、贈る相手がいなけりゃ、知りようもないよね」  なんだよ! その言い草は!  ああね。確かに俺にはそういうもんを贈る相手などいなかったよ。おまけにそんな技巧の凝らした高価な刀なども持っちゃいねえし。  不貞腐れた俺に対し、藤田は余裕の顔だな。 「それがどうした。俺も女に贈ったことがあるぞ。ああいうモノを贈ると女は喜ぶからな」  ぜったい、こいつには女など、星の数ほどいたにちげえねえ。何しろ、新選組ってのは、モテていたらしいからな。下衆野郎が……  どうでもいいような事だ。だが、坊ちゃんはそれが気になるらしい。 「何だか妙じゃないか。年増の割にこんな花細工のある大振りのかんざしを好むような人だよ。それなのにパチン留のない帯締。おミネさんの好みだったら、パチン留の帯留を締めていそうだと思わないか。例えば花細工のある小柄とか目貫を細工したような」 「たまたまだろう。別に妙だとは思わぬな。いったい何が言いたい」 「つまり、この帯締は誰か別人が仕組んだということだ。自死ではない、僕は殺されたと見ているよ」  この主張に、菱屋の亭主が顔を真っ赤にした。 「ば、馬鹿々々しい! そんな、何度も同じ厠で人殺しなんぞ、誰ぞ、うちの店に恨みがあるとでも言いたいのですか」  口角から唾を飛ばす菱屋を、検視していた巡査が 「まあまあ、菱屋さん。子供の言うことですから」と、なだめすかす。 「も、もう、けっこうです! これ以上、人殺しを増やされちゃあ、かなわない。尾白屋さんは帰って下さいまし」  今回は、小林殺しの時のように『誰が殺したか、わかりませんか』とは持ち掛けてこなかった。 「えっと、御座敷のお代をまだ……」  俺の言葉も、ピシャリとはねつけられた。 「そちらも結構です!」  と、まるで追い出されるように帰されてしまった。  菱屋の大暖簾をくぐって外に出た時、俺の背中で坊ちゃんが囁くようにつぶやいた。 「ね、お代は必要なかっただろ」 「坊ちゃん、確信していましたね」 「そんなことはない」  きっぱりと言い切るが、怪しい物だ。  結局、払ったのは鶏鍋の代金。あぁあ、こんなことなら卵を溶いた汁を終いまで食べておけば良かった。残してあった最後の鶏肉がもったいねえ。
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