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三十一 疑惑
侍から貸本屋へと鞍替えして丸三年。根っからの商売人と成り下がってしまった俺は、菱屋の亭主をあんな風に怒らせてしまったことが、気がかりで仕方がなかった。
そろそろあそこの離れにも顔を出さきゃならないってのに。前回貸し出した本の貸出期限も迫っているんだがなあ。
「あんな風に菱屋さんを怒らせて良かったんですかい」
菱屋は上得意というわけではないが、菱屋を使っている娼妓屋や芸者置屋は上得意の客である。桐畑の通りでもよく本の貸し出しをしているんだよ。あの界隈で嫌な噂など立てられなければよいが……
「別にいいよ。僕は正しいことを言っただけだ。だいたい、どう考えても小林さんを殺すことなど、おミネさんには難しいと思うんだ。だからこそ疑われはしたものの、それ以上の調べはされなかったんだろ。それが今さら、あの厠で首をくくっていたってだけで、小林さん殺しの疑いがほぼ決定したかのような扱いになった。まるで菱屋さんがそう導こうとしたようじゃないか」
確かにあの態度からは、おミネさんを下手人だと決めつけているように感じられた。しかし、そうだとしても、菱屋の言い分もわかりすぎるほど理解できる。
自分の店が殺人の舞台だなんて、誰だって嫌にちげえねえ。
「だとしても、自死の見込みが強い死に方というか、状況だというのに……なにも殺人だなんて断言することはなかったでしょうが。菱屋さんにしてみりゃあ、こんな事件、さっさと解決してもらいたいと思うのは当然じゃあねえっすか」
旦那の態度にはそれが見え見えだった。
坊ちゃんが片眉を上げた。
「僕が気にかかっているのはね、かんざしだよ。厠から引き上げたかんざし。あれ、わざと落とされていたんじゃないかって、前に言ったこと、憶えているか」
ぽんぽんと話題の矛先が変わる。けれど、坊ちゃんの頭の中では既に何か答えが見えているのだろうな。
俺はすっかりそんなこと忘れていたが。
「そういやあ、そんなことも言ってましたね」
「あの時、おミネさんが銀細工のかんざしを挿していることを言っていたのも、菱屋さんだよ」
そこまでは憶えていなかった。
「三四郎、お前は菱屋さんが今日言っていた『小林さんとミネさんが言い争っていた』というのは本当だと思うか」
「え、まあ、菱屋さんが嘘をつく理由などないでしょうし」
「僕にはね、むしろ菱屋さんは、積極的におミネさんを小林さん殺しの下手人に仕立てたようとしているんじゃないか……とさえ思えるんだよ」
「そんな……」
何のために?
「そう考えるとさ、あの日……僕がかんざしを借りて片山巡査と菱屋の厠を再検分した日、菱屋さんは僕に神通力でもって、かんざしの持ち主を当てさせておミネさんにたどり着くことを期待していたんじゃないかと思えるんだ。それなのに僕は持ち主を断定できなかったし、下手人も探し当てられなかった」
確かにあの時の坊ちゃんは、どこか曖昧な態度を取っていた。
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