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三十二 花街の噂
坊ちゃんが言うには、ずっと座っていると動くはずの左脚までどんどん細くなってしまうのだと。だから、たまに独りで近所をウロウロしていたりする。しかし、筋肉の落ちてしまった脚は少し動いただけでも辛いのか、そうやって外歩きをしたり、ちょっと鍛錬したりするだけで、ぱんぱんに張って、夜にこむら返りを起こすことが多い。
その痩せた脚を揉んでやるのも俺の役割だった。
――「いざという時、自分の脚で逃げるくらいはできないといけないだろ」
『無理をするな』と苦言を呈したら、そう返されたことがある。その時はぎくりとした。『いざ』とはどういう状況なのかと。
あの上野の戦の時のように、敵味方乱れての乱刃に巻き込まれた時であろうか。それとも戦火に炙り出されることだろうか……と。いずれにせよ俺は主君を助けられなかった。
父親が上野で討ち死にしたことを報せた時、歩けないことを悔やんで泣いた坊ちゃんを初めて見た。
そして腹を斬って詫びると言った俺を、泣きながら叱った。「お前まで僕を置いて行くのか」と。
あの後、杖を使って歩く練習や片足で立ち上がる鍛錬を密かに増やしたことも知っている。
だから気持ちをわかってやりたいが、それでも殺人事件が近所で頻発している今は心配でならねえ。
かといって心配が過ぎると坊ちゃんはへそを曲げてしまうのだからどうしようもない。へそを曲げた坊ちゃんほど扱いにくいモノは無い。
そんなことを考え悶々としていると、坊ちゃんと入れ替わるように豆千代がやって来た。
「今日は行商に行かないのですか」
入って来るなり、豆千代が驚いた顔をしていた。
「豆千代さんこそ、お稽古は」
月曜日は伊勢屋の半玉たちの踊りの稽古がお昼にある。浜田屋の踊りの稽古は木曜日の朝、踊りの師匠さんは五の付く日が休み……そういう予定は何となく頭に入っていた。
「今日は朝のうちにお稽古だったの。この本、ありがとうございました」
とても面白かったと、例の諺の本を風呂敷から出すと、お気に入りの頁をいくつかめくって教えてくれた。
「朔太郎さんにも伝えたかったのにな。少しは漢字も覚えたんですよ」
きっと面白かったと直接言いたかったのだろうな。
「本当に入れ替わりなんだ。坊ちゃん、どの道から行ったのかね。さっき伊勢屋さんに出かけたところだよ」
「そうなんですね、だから今日はお兄さんが店番なんだ」
「おにいさん?」
「え、てっきり、ご兄弟かと。朔太郎さんが店番役だから、ご機嫌を取って『坊ちゃん』って呼んでいるんだとばかり思って……」
豆千代は俺たちを本当の兄弟だと思っていたようだ。別にそう思われても不都合はなく、むしろ元武家で主従関係だったと説明する方が面倒だと感じた俺は、その言葉を否定も肯定もせず、苦笑いだけを返した。
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