三十二 花街の噂

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 貸出台帳をめくり、返却された今日の日付を書き込むと、次に借りる本はないか尋ねてみた。 「ううん、今はいい」  豆千代が首を振る。 「あれから菱屋さんで仕事はしたかい」 「はい。菱屋さんなら、三日に一度は呼んでいただいてるんですよ。桐畑の菱屋さんと五丁目の旭楼さんにはうちのお得意さんがいらっしゃるから。でも、どうして?」  昨日の今日だ。まだ噂が広まっていないだけなのか。豆千代は無邪気な顔で首を傾げている。  なんだ、知らなかったのか――と、うっかり菱屋のことを聞いちまったことを後悔する。 (あんな無惨な出来事を……)  しゃべっちまっていいのかどうか迷ったが、話を切り出したのがこちらなだけに、話題を変えることもできず。 「いや、あそこでまた人が死んだからね」  豆千代が、ああ――といった風な顔をした。 「ええ、姐さんたちから聞きました。うちも昨日はお昼の会合にお酌だけで呼ばれていて……でもすぐにお開きになったから、うちは帰るまでその騒ぎのこと、知らなかったんです。でもあとから夜の御座敷に呼ばれていた姐さんに聞かされたの。春木屋のお店の方が、小林様の亡くなった厠で自殺なさったって。だから今日は臨時休業なんですって」  驚いた。 「え、君も行っていたのかい。俺たちも昨日、座敷を取っていたんだよ」  偶然にも、俺たちは同じ日の昼に菱屋にいたということだ。  これには豆千代も驚きの声を上げた。 「まあ! だったら呼んで下さったらよかったのに。だって、昨日のお客様、何が気に入らなかったのか、食事が終わる前にお開きになっちゃって。帰ったらお佳代さんに『ほんまの意味の半線香やな』って嫌味を言われちゃったんだもん」  半線香とは、線香半分の時間しか芸が持たない半玉の未熟さを指す花街言葉である。  佳代子は伊勢屋の女中で、春木屋のミネのような立場なのだが、独特の上方言葉がきつく聞こえるらしく、幼い半玉らから嫌われている様子だった。  しかしおミネさんの自死のことよりも、自分の座敷の話をする豆千代に、ちょっぴり胸をなでおろす。 (巻き込まれなくて良かったってもんだ。) 「あんな騒ぎに居合わすくれえなら、さっさとお開きになって良かったぜ」 「だけど、神通力の朔さんなら、すぐに事件を解決なさると思ってたんだけどなあ」  辻斬りの下手人は捕まったものの、実際には前の小林殺しの真相すらあやふやな状況に、豆千代も落胆している様子だった。 「確かにねえ。しかし、財布やら証文箱を探すようにはいきやせんからね。殺し屋には脚がある。だから今も逃げおおせているってえわけさ」  言い訳がましく答えると、豆千代が再び黒目がちな目を丸くした。 「でも、姐さんから自殺した春木屋の女性が小林様を刺したのだと聞きました。だから小林様の件は一件落着になるだろうって」 「はあ?」  誰がいったい、そんな無責任な噂を流したのだろうか。菱屋はともかく、坊ちゃんはおミネさんの死を自死だとは認めていない。 「あ、いや、それなんだけどさ、警視の方は『小林さんを殺したことを苦に自殺』と推察したのに、うちの坊ちゃんが『この人も殺された』なんて言いだしたからさ。俺はてっきり、解決していないと心得ていたよ」  豆千代の眉間に柔らかな皺が寄った。あわてて、その怪訝な表情をなだめる。 「いやでも、それを聞いた菱屋さんがカンカンになっちまって参ったよ。だけどね、うちの坊ちゃんとしては、まだ厠事件の咎人は逃げているってことになってるんでさ。まあ、あのかんざしの持ち主も当てられなかったし、最近の坊ちゃんの神通力は当てにならないかもしれないがね」  ここにはいない坊ちゃんへのちょっとした悪口。もう神通力絡みの仕事はさせたくないという本心が漏れちまった。 「……そう」  豆千代も、一件落着だと聞いていた噂を否定され複雑な心境なのか、微妙な相槌を打ったきり黙り込んでしまったのだ。
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