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十八の時、はじめてセックスを「読んだ」。
『——王子様はお姫様を見初め、愛し合い、やがて二人は結ばれました。その後、王子様とお姫様は死ぬまで幸せに暮らしましたが、王子様に救われた村人の少女はその姿を少し切なそうに見ていました』
大まかなあらすじだけ言えばこんなストーリーだったけれど、実際のその本は子ども向けの童話ではなく、女の子が幸せになる、女の子のための官能小説で。王子様とお姫様は身体を繋げ合っていたし、内容なんか薄っぺらで、その上そんなシーンが総ページの三分の一を占めてから最初に手に取った時、だいぶ困惑した覚えがある。
でも、わたしは押入れで見つけたその本を読んだ時、どこまでもお姫様に優しく、酷い事なんて少しもしない王子様を見て恐怖の対象だった男とセックスをすこし見直した。
作者に会いたい。会って話をしたい。わたしはファンレターを書いて強引に会う約束を取り付けるのではなく、王子様とお姫様が出会うような奇跡を自分の力で勝ち取りたいと、そう思ったのだ。だからわたしは筆を執った。
——好きでもない男と自らセックスの真似事をするって、結局、他人を使ったただの自慰じゃん。人一倍性を怖がってるのに、結局、性欲には抗えなくってこんなことしている。
八月の薄暗い空、午後十八時の池袋駅前。
東口とは反対に来ただけでこの治安の違いは何なのだろう。そこそこ長い事生きてきたけれどこっち側に来るのは片手で数えるほどでしかない。デートスポットとして有名な場所がある反対側とは違い、なんだかこっちは嫌な感じがする。煙草、客引き、それを取り締まる為の放送、ホテル街に女の子を斡旋するようなお店がたくさん。こういう場所に来るのは何歳になっても慣れない。
「お姉さんパパ活の待ち合わせ?」
髪が薄い小太りの男性に声をかけられる。毎度思うが、「パパ」というのはどうしてどいつもテンプレートのような容姿をしているんだろう。この間お茶をした「パパ」も流石に目の前の男ほど髪は薄くなかったけれど、同じような雰囲気。若い女の子とセックスがしたい、それしか考えていないようななんだか薄汚い空気。今日、声をかけられるのは三度目だが、みんな同じ空気を纏っている。
「ごめんなさい。違います」
「ああそうなの、ごめんね、いきなり」
そう言って男性はそそくさと去っていく。彼はまた別の女の子を探すんだろうか。わたしは本当はもう女の子って歳ではないのだけれど、この格好ならそう見えても仕方がないのかもしれない。似合ってないかな、と一瞬考えたがすぐに思考をシャットアウトした。わたしは好きでこの服を着ている。だけど、心の内ではこんな事を考えている。
——ミニスカートを履いちゃいけないのって、一体何歳からだっけ、と。
前デートした一つ年下の男性と服を見に言った時、ミニスカートを見ていたら「アラサーからは履いちゃダメでしょ」と笑われた。あの時は笑ってごまかしたけど、わたしは二十八歳になってもミニスカートが好きだ。黒い厚底に総レースのミニワンピース。少女のような恰好を今日も辞められない。
二十八歳。処女。官能小説家志望。
わたしは今日も、女性用風俗を利用するために池袋に来ていた。
『共感ができません』
小説を編集者に読んでもらって、まず書かれるのがそれ。
耳にタコができるほど指摘されて、改善しようとは努力している。
それでも、この評価は変わらない。
『私達が作ってるのは確かにエロがメインの小説ですが、くくりとしては恋愛小説です。形としては濡れ場は書けています。でも、主人公の感情に共感できないんですよ。どうして主人公が相手を好きになったのかわからない』
小説には漫画の様な持ち込み、と言う文化はない。だから出版社に送って評価シートというアドバイスを可視化した紙を貰うことで自分の弱点を把握して次につなげるのが主流だ。わたしがこの出版社に原稿を送ったのはこれで十回目。それだけ書いて、常連になったからか評価シートは年々辛辣になっていった。最初はお客様対応でほめてくれたのに。
『何年も投稿していただいていますが、なにも変わらない。このままではデビューはできません』
優しい言葉だと、思いたかった。
普通ならばこんな作家志望の一人にこんな親身なアドバイスはしてくれない。認知されるだけ頑張ってきたし、編集者にもそれは評価してもらえているのだろう。だから、改善しろと。きっと今までのわたしなら頑張ろうと思えた。でも、今のわたしにとっては余計に追い込まれる言葉でしかなかった。
転職するならば二十代までに決めなさい、そう言われたのは確か去年だか半年前だったか。いつまでも契約社員のままで、転職して正社員にならないわたしにしびれを切らした母はわざわざ一人暮らしの部屋に乗り込んでまで怒鳴り込んできた。
「結婚する予定も無いの⁉ ちゃらんぽらんなのもいい加減にしなさい! 結婚して家庭に入って! そんなんだといつまでたっても——」
母には官能小説を書いている事は勿論言っていない。言えるわけがない。だから契約社員が辞められないのも説明できない。わたしが今勤めている会社は契約社員は残業が免除されている。正社員だと残業で執筆の時間が取りずらいから、数年前に正社員だった会社を辞めて今の会社に転職した。名目上は婚活の時間を取りたいし、結婚前に花嫁修業として習い事をしたいから、と説明してある。習い事は三ヶ月で辞めたし婚活はしていない。そもそも今の時代、男だって契約社員か正社員、どっちの女がいいか聞いたら後者を選ぶと思うが、お嬢様学校出の社会経験が無い年金と慰謝料暮らしの母にはわからなかったらしい。こちらとしては助かるがどこまで古代を生きているんだか。
「お友達の斎藤さんが言ってたの! 転職するなら二十代までだって! もし二十九までに良い人紹介しなかったらお見合いさせますからね!」
母はそれだけ言って嵐のように去っていった。猶予はあと一年、それまでにデビューしなければならない。それで言うのだ。小説家をやってます。デビューできたのでちゃんと転職はします。両立はします。自立もします。だから結婚は勘弁してください。
——わたしはセックスが出来ないんです。
「シオリさん!」
いつも裏で使っている名前を呼ばれて正気に戻った。
何回ブリーチしたのだろう、金髪に近い髪を揺らして駆けてきた背の高い男性が信号を渡って目の前で立ち止まる。まるで地下アイドルかなにかみたいな見た目の彼、ソラくんは今年で三十歳だと言う。どう見ても二十代前半にしか見えないのに。小さな皺に抗う日々を送るわたしにとっては羨ましい限りだ。
でも、そんな彼に救われているのも確かだ。この池袋駅前、ラブホ街、ソラくんの前だけが普段はOLをやっている普通の女がミニスカートを履いて堂々と「女の子」でいられる時間だった。
わたし達はこれからセックスの真似事をする。挿入は無し。男性キャストから女性客への奉仕が女性用風俗の内容だ。
「ラブホどこにする?」
「いつものとこでいいでしょ」
ホテル街を手を繋いで歩く。何もときめいたりはしない。おかしいな、普通イケメンと手を繋ぐとドキドキするんじゃないの? そう思ったのは初回だけだった。今ではただの行為の合図でしかない。
ラブホテルが並ぶ中のひとつ、彼と最初に行った建物に入る。二時間三千五百円の安いホテル。右も左もわからなかった時に安い方が良いでしょ、とソラくんが選んでくれた部屋だった。本当はもっとかわいい部屋が良かったのだけど、今はこれでちょうどいいと思っている。今からするのはどうせ作業で、そこにトキメキの類はない。だから、ベッドとシャワーと鍵が最低限あればどんな粗末な部屋でも良いのだ。
適当な安い部屋を選び、フロントで鍵を貰ってエレベーターに乗る。すれ違ったカップルはわたしたちの方を一瞥もしなかった。普通のカップルに見えるのだろうか。それともそんなこと考える暇もなく自分たちの世界に酔っている? ラブホテルをまともな使い方をしたことがないわたしにはわからない。
部屋に入ると大きな荷物をソラくんが床に置く。荷物はおもちゃだかバスタオルだかがいろいろ入っているらしい。こちらとしては性欲解消と体位やシチュエーションのアイデアが湧けばいいからどうでもいいけど。お互いに靴を脱いで、ついでに服を脱いだ。
「シオリさん会計先!」
「あーまって、今財布とる」
全裸でバッグから財布を漁ると、わたしはその中から数万を抜いて彼に手渡した。
「恥とかないの」
「見慣れてる人が何言ってんの。今更でしょ」
「本番の時に相手萎えるよ」
「知ってるでしょ。そんな時来ないって」
そうして金銭のやり取りをして、わたしはソラくんの二時間を買う。それから奉仕を強制させる義務も。
一緒にシャワーを浴びて、マッサージをしてからサービスが始まる。全身リップをされる時、毎回髭が当たって男に抱かれていると実感する。その度にこの苦痛が早く終わってくれないかとキツく目を瞑る。それは彼の問題ではなくわたしの問題だ。性器に指が入り、生理的に喘ぎながら思う。こんなの、男を使ったただの自慰じゃん。抱きしめ合っているのにどこかとても虚しくて、とてもつらい。
「エロ描写、少しは良くなった?」
行為の後、一緒に湯船に入って話すのは好きだ。毎回話すことは同じだけれど。彼には官能小説のリアリティの追求のために風俗に通っている事は話している。
「話題がスルーされることは無くなった。でもさ、共感できるようなっていうのはわかんないわ。エロを突き詰めちゃダメなの?」
「シオリさんが書いてるのって女の子向けの小説でしょ。大事なのは恋愛感情。エロは大事だけど心のつながりがあるから気持ちいいわけで」
「心の繋がり……わたしは素敵な恋愛が書きたいから官能小説を書いてるのに……なんだかうまくいかないなあ……」
そうして服を着て、別れて、わたしは帰宅する。そうして、すぐに風呂に入る。ボディタオルで肌が赤くなるまで擦って、触れられた感触を失くす。綺麗にする。行為の後に一応シャワーは浴びているが、念入りに、それこそ病的に身体を磨く。それから陰毛を全て剃る。そこまでして初めて、安心するのだ。
大丈夫、わたしはまだ大人じゃない、と。
育った実家はとても性を汚らわしいものとして見ていた。ある小説に出会うまでは「セックスは汚らわしい」なんて思っていた。正直今だってそうだ。創作の中以外では嫌悪感が湧いてしまう。頭ではわかっている。みんなやっている普通のこと。それでもわたしはセックスが出来ない。彼氏は告白されたからいたにはいたけどうまくいかなかった。セックスをする雰囲気になって過呼吸を起こして、そんなことが続いたから彼に言われたのだ。異常だよ、なんて。
言えなかった。どうして女性だけが痛い思いやリスクを負わなきゃいけないの? 破瓜の痛い思いも、妊娠のリスクも、全部嫌。それが大人になるって事ならわたしはずっと子どもが良い。
わたしは子どもでいたい。性の痛みを知らない、純粋無垢でミニスカートが似合う、そんな女の子に。
それでもやっている事は出会い系で男漁りをしたり、パパ活をしたり風俗へ行ったり官能小説を書くことだから笑ってしまう。人一倍恋愛や性に興味があるのに、人一倍「性」を嫌っているから恋愛が出来ない。
見られるのも、触られるのも、卑猥なことを囁かれるのも我慢できる。
それでも本番、大人になると言われるようなことは絶対嫌。
だって、大人になったら父が迎えに来てくれなくなるから。
小学生の頃、性被害に遭った。
裏切られた。
現実の男性に自分から触れられなくなったのはそれからだ。
汚い、怖い、怖い、怖い、何考えてるかわからない。男は恐怖の擬人化でしかなかった。
父以外は。
父は決して男の汚い部分を見せなかった。勿論、会社員のフリをして官能小説家という職業をやっていたから性欲はあるのだろうけど、少なくともわたしには隠していた。離れた後、押し入れに残されたボツの作品を読んだけれど、性は二の次で恋愛が主軸の物語ばかりだった。だから父だけは世界でただ一人大丈夫だった。だいじょうぶ、この人はわたしを殺さない。だいじょうぶ、この人はわたしをそういう目で見ない。だいじょうぶ、わたしが「子どもでありさえすれば」この人はわたしを守ってくれる。
実際、父は家族に暴力を振るったり怒鳴ったりしたけれど、わたしにだけは何もしなかった。いつも怖がらせてごめんね、と謝ってくれた。大丈夫だった。子どもでありさえすれば守られる。
大人にさえならなければ、わたしは。
だけど、まあ大人になって思えばよく隠せた方だと思う。母は父が官能小説を書いている事を知り、耐えきれず離婚を申し出た。名目は家族への暴力のせいだったけれど、わたしと二人の時は「エロ小説なんて気持ち悪い」と毎日の様に言っていた。その金でアンタは働かずにいられたのに、とわたしは思ったけれど。
父は慰謝料を一括で払って失踪した。あれから十何年、わたしは会えない父を忘れられず歳を重ね、年々、子どもではなくなる身体に重圧を感じている。わたしは子どもでいなければいけないのに、いつの間にか人の親になれる年齢になった。
「……次の風俗は陰毛が生えてからか」
幼い子どもの様に綺麗にした陰部を見てひとりで呟く。こうでもしないと心が壊れてしまいそうになる。大人になりたくないからセックスはしたくない。でも年齢はセックスをしなくてはいけない歳になってきたし、結婚も求められる。
あれから陰毛が数回生え変わった。それだけソラくんを利用して、時間が流れた。それだけ、わたしは母から課せられた大人へのカウントダウンに怯えていた。
そして、最終日。
「全滅……」
A社、落選。B社、落選。C社、落選。二十八歳のチャンスは終わった。笑いしか出ない。いくら頑張っても報われないことはあるのだ。わたしは才能ある父にはなれない。何年やっても芽は出なかった。
今から母に電話をする予定だ。お友達の息子さんとのお見合いの話は決定したらしい。今日、日付を決めるのだと言っていた。わたしは土日が休みだから先方の都合がいい日のどこかにぶち込まれるのだろう。震える手の意味は自分でもわからなかった。母に電話をしなければ。頭ではわかっているのにスマートフォンに打ち込んだ番号は電話帳に登録した番号ではなく。
「はい、本日はどのようなご用件でしょうか?」
スリーコールで通話に出た店員にわたしは消え入りそうな涙声で言う。
「今からソラくんの一日を、買わせてください……」
その日は雨が降っていた。濡れたコンクリートは明日には元の色に戻るのだろうか。
乱雑に物が置かれた自室に人を招くのは久しぶりだった。小説を書くように、父の背中を追いかけるようになって友人関係は希薄になり、人を家に招くことも無くなったからだ。休日にやる事と言えば執筆だけで、そんなつまらない日々を何年も続けてきた。いつか理想が叶うと夢見て。今までの数年間は無駄になってしまったわけだけれど、その時間はわたしに何を残してくれただろう。父の背中を追うだけの時間に意味などあったのだろうか。
ベッドの上で天井を見るだけ。時計の長針が一周ぐるりと回り、玄関からチャイムが鳴る。速攻来てくれるって本当だったんだ、となんだかよくわからない笑いが出た。それが安心からの笑いか、相変わらず予約がなかなか入らない彼への憐みの感情かはわからない、前者だったらいい。わたしは男の人が得意ではないけれど、父の次にソラくんは好きだったから。
「……シオリさん、来たよ」
玄関のドアを開けると、そこにはびしょ濡れのソラくんが息を切らして立っていた。
宣言通りソラくんは自宅まですぐに来てくれたのだ。自宅まで来させる料金はかなりかかるし、部屋も見られたくなかったけれど、今すぐ誰かに傍に来てほしかった。
「どうしたの」
「……もう、だめになっちゃった……。ひとりでいるのもいやで、それでよんだの……」
もうどうだってよかった。だって、わたしはこれから踏みにじられなきゃいけない。子どもでいたいという希望を、父ではなく見ず知らずの好きでもない男に。
ソラくんは買ってきてくれたのだろうミネラルウォーターを差し出してくれた。一口飲んだら涙が出た。
「……小説、全部落ちたの。デビュー、二十九歳までに間に合わなかった」
「そっか」
ソラくんは慰めの言葉を言わなかった。わたしにとってそれはとても楽な事で、するすると次の言葉が出てくる。
「何がダメだったのか、わかんないの。いくら考えても、いくら書いてもわかんなかった。もう書いたところで意味ないけど」
「うん」
「約束の歳になったから、お見合いしなきゃいけないの。それって、ゆくゆくはソイツとセックスしなきゃいけないんでしょ? 大人になりたくない、やだ、やだよ……」
そう言うと、ソラくんはわたしを抱きしめてくれた。優しく、安心させるように。それでようやく、大声で泣けた。
「やだ、やだよ、パパ……! たすけてよぉ……」
どこにいるかわからない父が助けてくれるわけがない。そんなのはわかっているのに、口から出てきたのはそんなセリフで。ファザコンかよなんて思うけれど、ソラくんは笑いも気持ち悪そうにもしなかった。ただ、わたしの背中をさすって、安心させようとしてくれた。
「大丈夫だよ」
何がだよ、その言葉に大声で叫びたかったけど声にならない。だって今も嗚咽は零れて涙は流れているんだから。口は二つもないから泣くことか、言葉として思いをぶつける事か、人間はどちらか一つしか出来ないし、わたしは父と違ってうまく頭ができていないので、泣くことでしか今の想いを表現できなかった。これを言葉に出来ていたらデビューは出来ていたかもしれないけれど、残念ながらわたしには無理だったので。
「……最後にチャンスを貰おう」
「……え……?」
「お母さんには俺が彼氏のフリをする」
ソラくんはわたしを抱きしめながらそう言う。わたしはすぐにぶんぶんと首を振った。
「だめだよ、店外は契約違反だよ」
店の外で会ったり関わりを持ったりするのは契約違反だ。それは彼もわかっているはず。それなのにどうして。
「俺、このままシオリちゃんを見送ったら絶対後悔する」
共感が出来ないわたしにはわからない。どうして、彼がたかが客にそこまで肩入れするのかも。
「スマホ、貸して。お母さんに今から電話する」
わたしはロックを解いて電話帳から母の電話番号を呼び出した。それを渡すと彼は母に電話して何かを話す。内容は頭に入ってこなかった。ただ、どうして協力してくれるんだろうとそれだけが頭を埋め尽くしていた。
何かの話が終わって、それからソラくんは自分のスマートフォンを操作してあるページを呼び出す。それは「新人賞対策セミナー」のページ。どうやら最近出来た新しい小さな新人賞の対策セミナーで、有料で審査講師がチェックポイントを教えてくれるものらしかった。
「これ、シオリさんにって調べてた。次の新人賞の対策セミナー。この先生の講義前に事前課題の提出があってチャンスがあればデビューもできる。開催は三ヶ月後。有料だけど、もうお母さんを納得させるにはこれしかない。今話した、次のコンテストの結果まで結婚は待ってくれって」
赤の他人のソラくんがわたしの為にここまでやってくれて、わたしはそれをありがたく思わなければいけないのに、目線はスマートフォンの画面に釘付けになって動かなかった。冷や汗が浮かぶ。なんで、どうして。
「パパ…?」
審査員の顔は紛れもない父だった。
わたしは誕生日の次の日。父に会う権利を買った。税込み三万五千円。風俗に比べたら安いんだろうか高いんだろうか。金銭感覚が狂っているのでわからない。
事前課題は悩んだ。テーマは自由。基本的に当日の一か月前までに原稿用紙三十枚の短編小説を送って、当日添削が返ってくる。
受賞……と言うか審査員である父と開催関係者の目に留まれば出版までとはいかなくても何かしらのチャンスがあるんだとか。
正直そこには興味がない。出版社から何度送ってもダメだった人間の小説のレベルなんてたかが知れているし、今回の目的は父に会うことだ。だが小説は書かなければならない。
ここは適当に書いて茶を濁そうか。
今まで書いてきた小説に目を通す。流石にガチガチの官能小説を一般に送るのはなんだか気が引ける。と、なると比較的得意で慣れている恋愛で行くか。
「……あ」
パラパラと今まで書いてきた作品を見て思いつく。
どうせ、わたしは結婚して小説を書くのを諦めて、大人にならなきゃいけない。
なら、最後に本当に「自分が書きたかったこと」を書こう。
わたしはパソコンを立ち上げ、ソフトを開く。
何を書くかは決まっていた。
「…ということで、皆さんこの添削を参考にしながら邁進してくださいね」
華村俊彦。それが父である先生の名前。官能小説家一本で書いてるわけではなかったのは初めて知った。サイトに顔が載っていなかったら気が付かなかっただろう。父は、顔に大きな火傷がある。整形をしなかったようでそれは今でも変わらない。
「それでは、今日は終わりです。お疲れ様でした」
わたしはみんなが帰っても席から動かなかった。
スタッフが声をかける。もう終わりですよ、と。わたしは動かなかった。
——パパ、ねえ、わたしだよ。気づいてよ。それとも、大人になったからもう興味がなくなった?
スタッフがテコでも動かないわたしにため息をついた時、こちらへ足音が近づいてきた。
目の前で立ち止まる。影がわたしの身体に覆いかぶさった。下を向いているわたしは、彼がどんな表情をしているのかわからない。面倒な客だと思ってる? それとも、わたしって気づいてくれてる? ねえ、どっち?
「華村先生、すみません」
スタッフが言う。
父——……いや、パパは「この子と話をさせてくれ」と答えた。
「知り合いなんだ」
パパ、わたしは知り合いじゃないよ。
わたしはパパの娘だよ。
近くのカフェに入って、なんでも頼んでいいよと言われたからアイスコーヒーにガムシロップをたくさん入れた。本当は大好きなクリームソーダを頼みたかったけれど、クリームソーダはすぐに溶けてしまうから。パパと一秒でも一緒にいたかったわたしにそれを選ぶ選択肢は無かった。その代わり、ガムシロップの喉が痛いくらいの甘みがこれが現実であることを教えてくれる。
「小説を書いてるのか?」
「うん、恋愛小説。エロいやつ。十八から書いてて、転職するくらいには本気だった」
「夜逃げ同然に家を出たからなあ、忘れ物が見つかったか。教育に悪かったなあ」
パパはそう言って気まずそうに笑う。
「でもね、もう諦めなきゃいけなくなっちゃった」
「どうして?」
「お母さん、わたしにお見合いさせるって。結婚したらセックスしなきゃいけなくなる。わたししたことないの、子どもでいたいから」
パパは夏だと言うのに頼んだホットコーヒーをまた啜った。コーヒーが冷めるまで一緒にいてくれると言うことなのか、その量から早く帰りたいと思っているのか「共感」が出来ないわたしにはわからない。
「そういう小説を書いているっていうことは興味はあるんだろう? 子どもでいたいっていうのは……」
それから、ソーサーにカップを置いてパパは呟いた。
「……私のせいか」
「違うよ」
わたしはそうとしかいえなかった。パパを傷つけたくなかった。いくら実際がどうだったとしても。
「……小説を読んだ。あれは、あの日実際に起こったことだろう。あの時全てをアイツから聞き出せなかったけれど、すぐに分かった。……すまなかった」
「なんでパパが謝るの」
わたしは笑う。だって、おかしい。アイツからわたしを助けてくれたのは紛れもないパパなのに。わたしにとっての王子様はパパだったのに。今まで書いてきた小説のような「王子様とお姫様は結ばれました」みたいなハッピーエンドは要らない。わたしは村人Aでいい。わたしは、通りかかった王子様に助けられて恋をした村人A。それ以下でもそれ以上でもなかったのだ。
「わたしは、幸せになりたいだけなの」
世間一般的な幸せはわからない。でも、わたしにとっての幸せは「子ども」でいることだ。その定義はきっと理解されにくいだろうけれど。
「大人は嫌。わたしは愛されたい。守られたい」
「……ごめんな」
「……パパは悪くないよ」
「私がちゃんとした父親だったらお前は普通でいられた」
「わたしは普通だよ」
わたしは普通だ。パパは何も悪くない。
「パパは悪くないよ。パパは、パパは」
次の言葉は喫茶店のBGMの中に消えるくらい小さな声で、こんな声しか出なかったっけ、と自分で疑問に思った。震えた声はパパに聞こえたかはわからない。
「わたしの手を握ってくれたから……」
母は、性的な事を毛嫌いしていた。
どうだっただろう、それはわたしがそう勘違いしていただけかもしれない。本当に嫌いだったのはわたしのことだったのかもしれない。少なくとも、母がわたしの手を握ってくれたことはこの生涯で一度もなかった。
だから、愛されてると思ったのだ。パパが、わたしの手を握ってくれた時。大丈夫だよと言ってくれた時。わたしは、少なくともこの人には愛されていると。そう思うことで、正気を保っていられた。
「……覚えてる?わたしが性被害にあった時」
「ああ……」
「あのときね、本当は『寸前』までいったの」
パパは下を向いて、黙り込む。そして絞り出したように「読んだよ」と、それだけ呟いた。
幼いころ、わたしは性被害に遭った。
裏切られた。父以外の家族全員から。
あの日の事は、断片的にしか覚えていない。雨の降る日、暑くて、わたしはミニスカートを履いていた。自室に居て、宿題が終わったから三角座りをしながら本を読んでいて、その日は本当に暑くて——スパッツを履いていなかった。
それから、強い力で押し倒される。怖かった。なに、なにするの、わたしなにもしてないよ、なんで口をふさぐの。
——お兄ちゃん。
我が家ではタブーになっているその話の加害者は実の兄だった。
現場だった自宅には母も確かに居た。だけど母はお友達との電話に夢中で気づかなくて、口をふさいだ兄を振り切って「たすけて」の声をきいてくれたのは隣室で仕事をしていたパパだった。官能小説を書いている途中で、実の息子から性被害に遭う娘の姿を見てパパはどう思っただろう。わたしはその後の記憶が無いが、映像として覚えている。兄を殴って、その兄は床で尻もちをつきながらパパに怯えていた。パパはわたしを抱えて家を飛び出して近くの公園で話を聞いてくれた。その時大学生だった兄は家にその日から帰らなくなって、兄を病的に溺愛していた母はわたしを嫌うようになった。
「そんなんだといつまでたってもあの子が帰ってこれないじゃない!」
あんたさえ結婚して収まってくれればあの子は安心して帰ってこれるのに。知らないよ。
母がわたしを結婚させたいのは兄の為。
わたしには全く情報が入ってこないが、兄は現在遠方で教師をやっているらしい。ロリコンが教師。捕まってしまえ。
母はあの日の事はわたしが悪いと言う。あの子をアンタが誘惑したんでしょ。あの子は悪くない。早くあの子を返して。
だったらわたしからパパを返してよ。暴力を振るったのはあの時、兄に一回と見てみぬふりをした母に一回だけだった。それなのに診断書を取って、金目当てに親権を主張して、あの人はパパをわたしから奪っていった。
だから女性性というものは嫌いなのだ。居るだけで、好きな服を着るだけで、「男を誘惑している」と解釈されるならばわたしはこんな性を捨ててしまいたい。
「あの時、怖かった。自分が変なものになった気がした。それから、自分の身体が変なことに気づいた。あんな男の、あんな男すらも力でねじ伏せられればわたしの身体は受け入れられる。あの時パパに聞いたよね?わたし、何か変わった? って。そしたらパパは言ったの。何も変わってない、パパの大事な子どもだよって」
『わたし、何か変わった?』
『大丈夫だよ。何も変わってない、パパの大事な子どもだよ』
どれだけ、あの言葉がわたしにとって救いだったか。
木製のテーブルが水滴を吸い取って色を変えた。ぽたぽたと落ちる涙は何が悲しいんだろう。何が怖くて泣いているんだろう。
「わたしは、子どもでいたい……まだ、誰かにあいされて、まもられていたい……」
結局、何が怖いかって。
だれかにあいされなくなること。
だれかにまもってもらえなくなること。
だれかと、てをつなげなくなること。
大人になることはひとりで歩いて行かなきゃいけないってことで、わたしは昔からその自信がない。誰かを受け入れられない。誰かを受け入れることが前提の、ひとりで生きていけない身体。
気持ち悪い。わたしはこの性が大嫌いで、この異常な性格も大嫌いだ。
良い歳して父に依存して、なんてことはわかってるのに。
「志歩」
何年かぶりにこの人から名前を呼ばれた。
自分の志す道を歩けるように、と父がつけた名前。わたしは、ちゃんと自分の選んだ道を歩けているだろうか。
「ずっと子どもでいることは無理なんだ」
それはわたしにとって死刑宣告と同義だった。
「私はもうきみのパパじゃない。きみが本当に助けてほしい時に駆けつけてあげられない」
パパはそう言ってからわたしに頭を下げる。
「ごめん」
「なんで……?」
全部自分に言い聞かせてきただけだった。素敵な恋愛が書きたいから官能小説を書いてる? 嘘だ。本当はパパに近づきたくて、何か、同業になれば何か奇跡が起こって、会えないだろうかと。 それなのに結局、奇跡なんて素敵なものではなく、お金でわたしはパパに会う権利を買った。
「人はいつか大人にならなきゃいけない。ひとりで生きて行かなきゃいけない。私は小説で何度もお姫様の所に王子様が迎えに来る話を書いてきたけれど、それができない人はひとりでいるしかないんだ」
じゃあ、わたしはどうすればいいの。女として欠陥品で、ひとりで生きていくことができない。そんなわたしは、生きていること自体が間違っているの?
それを否定してくれたのも彼だった。
「でも、それは間違ったことじゃない」
「え……」
「ひとりだけでもいいんだ。王子様に寄り掛からなくても、依存しなくても、一緒に歩きたくなければひとりでいい。私はその為に官能小説を書いてる。性欲は誰にでもあるけど、それを発散する対象は他人じゃなくていいから」
パパはそう言うと、テーブルの上に置かれたわたしの手を包み込む。コーヒーで温められたせいか、彼の体温は安心した。
「志歩、いくらママが結婚しなさいって言っても気持ち悪かったり嫌だったりしたら逃げていいんだ。志歩の身体はもう誰にも開かなくていいんだよ。それでも正常だ。セックスすることだけが、子どもを卒業することじゃない」
肯定された気がした。わたしの気持ちを。でも。
「……子どもをやめたら、誰がわたしを愛してくれるの……?」
肯定してもらったって、根本は何も解決しない。
「ひとりはいや。わたしは、パパがいないといきていけない。みんな気持ち悪いの、どの男も、みんな気持ち悪いの、女だってそう、あんな汚いもの入れてるかと思うと同じ人間とは思えない。パパだけなの、たすけて、お願いだから……」
それでもパパはわたしを突き放すのだ。
わかる、だって今回出会えたことは奇跡でしかない。パパは昔みたいに困ったときに飛んできてはくれないし、助けてもくれない。それはわたしがもう独立した大人の年齢で、パパとわたしはもう独立した個人で、別々の人生を歩んでいるから。だから、もうパパはわたしを助けてくれない。助けられない。
「志歩、志歩が嫌いな汚い人間なのはパパも同じだよ。だから志歩が生まれた」
わかってる。そのくらい。
セックスの元は繁殖行為だ。極論、好きな人同士じゃなくても性欲さえあればできる。ここにわたしが存在しているということは、わたしの王子様であるパパも、他の男と変わらないのだ。
それでも。
それでも、パパはあの男とは違う。わたしの尊厳を軽んじてきた男とは違う。
そのパパは言う。「志歩」とわたしの名前を呼んで。
「誰のことも好きになれないなら自分のことを好きになりなさい」
カラン、とわたしの甘いコーヒーが鳴る。
「自分のことを愛して、自分の志す道を歩きなさい。そういう子に育ってほしくてパパはきみの名前にに願ったんだよ」
汗の球がコースターに垂れるのが目に入った。コースターが濡れる。グラスに浮かんだ冷たい汗と、しょっぱくて暖かいわたしの涙で濡れる。
「愛してるよ、志歩」
パパのその言葉はガムシロップの様にわたしの心に染みた。愛してる、欲しかった言葉が得られたのに心が痛い。だって、この言葉はもう二度と聞けないから。
「……ママとの契約違反だから、私はもうきみに会うつもりはないけれど、私はいつでも志歩の幸せを願ってるよ。志歩が生涯ひとりだったとしてもそれは変なことじゃないから。それだけは覚えておいて」
パパはそう言うと伝票を持って立ち上がる。わたしはその手を掴んで小さな声で言った。
「志歩……」
「最後にする。もう諦める。駅まででいいから一緒に帰って」
手も、声も震えていた。望んでいた言葉を貰えて、自身を肯定してもらって、生き方を定めてもらっても、離れたくなかった。
無言で手を握っても振り解かれなかった。周りからはパパ活か何かに見えるだろうか。そうだったらいいのに。いつかの「パパ」みたく利害の一致で何回でも会えればいいのに、わたしにはこの一回しかない。
「あのね」
ソラくんとするような指を絡ませる手のつなぎ方ではなく、親子がする普通の手のつなぎ方。自分が求めていたものは最初から最後までこれだったんだと思った。風俗も、パパ活も、いろいろしてきたけれど、男じゃなくてわたしはこれが欲しかったのか。
「わたし、クリームソーダが今でも好きなの。パパが好きだったから」
「うん。私も今でも好きだよ」
「小説も、パパが書いてるから書いてたの。もしかしたら、同じ業界に居たら対談とかで会えるかも、なんて思って。どんな理由を並べても根本はパパに見つけてほしくて、忘れたくなくて。でも、もうやめるね」
立ち止まって、パパの方を見る。彼はどこか寂しそうな、それでいて泣きそうな顔をしていたかもしれないけれど、わたしにはパパの気持ちがわからないから、なんと言うことも出来ない。でも、それで正解なんだと思う。離れがたいと双方が思っていたとしても。慰めの言葉はわたしにもパパにも必要ない。だって、それがあったとして別離の結末は変わらないんだから。
「無理してパパを追いかけるのはやめる。パパにもうあえないなら、難しいけどひとりで立つのを頑張る。今まで知らなかったわたしを好きになろうと思う」
「うん」
喫茶店から駅までの道は泣きたいほど短くて、タイムリミットはあっという間に来てしまう。
「じゃあね、志歩」
手が離れて、パパがわたしに背を向ける。
「……パパ!」
パパは振り向かなかった。
「大好きだった!じゃあね!」
最初に読んだパパの小説は、お姫様が王子様と心も身体も結ばれるお話だった。だから刷り込みに近かったんだと思う。いつか自分にも王子様が現れて、それで大人になるんだと。でもどんな男の人と出会っても、気持ち悪さは消えなくて、でもパパはそれでいいんだと言ってくれた。
愛してる、そう言ってくれた。
だから、もう大丈夫。
わたしはお姫様ではない。ただの村人Aで、素敵な恋物語を追い続ける必要はない。ふたりでなくて大丈夫。ひとりでも、王子様が居なくても、わたしはお姫様じゃないから生きていける。
これからは、セックスが出来ないわたしを、ひとりでいるわたしを、認めて愛す努力をする。
「……はは」
それでも、丸の内線の車内では少しだけ涙が出た。今日だけ、甘くみてやろう。
今日が子どもだった自分の卒業の日だから。
次の日、母に今までの没原稿を持っていった。
それから、彼氏のネタバラシを。
「なに、風俗行ってたの……?」
「……うん」
母は涙も流すことも無く、発狂することもしなかった。ただ、その表情に浮かんでいるのは軽蔑の表情ただひとつだけ。
「気持ち悪い…」
なんとでも言え。そんな気持ちがわたしを支えていた。だってわたしはもう決めた。ひとりで生きていくって。無理してセックスなんてしたくない。
「恋愛感情、わかんないの。実益も兼ねて、わかろうとはした。色んな男の人にあってきたよ。合コン、街コン、パパ活、チャットレディ、風俗。でもね、だめなの。わたしは男の人は好きになれない。女の子はどうかなとも思ったけど、それもダメだった。だから、ひとりで生きていきたい。それを認めて欲しい」
そう言ったわたしを、母は意味の分からないものを見るような目で見た。
「人を好きになれないの。わたしはわたしが好きなの」
それでいいと、パパは言ってくれたから母の罵倒にも耐えられた。何とも思わなかった。欠陥品、ビッチ、汚物、あとなんだったか。何でもいいか。親子の縁を切るとまで言われて、それからちょっとスッキリした。
実家にはもう帰るつもりはない。最後にそう言ったので、母は兄を家に呼び戻すかもしれない。まあもうどうでもいい。ここから先は、わたしには関係ない事だ。
これでもう、わたしは本当にひとりだ。
好きでもない男とセックスの真似事をするのって、他人を使ったただの自慰じゃん。
そう思っていた。実際、そうなんだと思う。だからわたしはひとりで生きる為に今日も男を買う。
数年続けたものというのはどうやらいきなりやめられないようで、創作欲の根本であるパパへの感情が昇華されて小説はぱったり書かなくなった。が、結局女性用風俗の利用は辞められなかった。だって、ソラくんとは普通に話したいし、もう通うのはルーティーンみたいなものだし。それを抜いたって、彼はわたしの理解者だから、お金を出しても会いたいなと思う。そのついでに性欲発散もしたいという感じだ。パパはひとりの人でも性欲が発散できるようにと官能小説を書いていると言ったが、わたしはそれでは満足できなかった。生物って、女って、なんだかちょっと難しい生き物だ。
ひとりで生きるというのは難しい。主に性欲面で。だからお金で男を買ってまで他人を使った自慰をする。でもやっぱりどこか気持ち悪いし、違和感はあるから、いつかやめるだろう。
けど、それは今じゃないし、もうわたしを怖がらせる人はいない。
ソラくんがあの時協力してくれたこと、どうして? と落ち着いてから聞いた。答えは「多分シオリさんがすきだから」との事だったけれど、わたしはその告白を断った。どうやらわたしは好みの顔がもう確立しているらしい。どこまでも一途な事で。
「ごめんね」の言葉には「知ってたからノーダメ」と。その代わりソラくんがいる限り指名し続けることを約束したら「本当に人の気持ちがわからないのか」と呆れられた。ごめんね。
「シオリさ……」
「新しい名前で呼んでって言ってるじゃん! 志歩!」
わたしは「シオリ」という名前を使わなくなった。元々の由来は本に挟まる栞。まだわたしは小説家として道半ばだと思っていたから「これは取材だ」という戒めも込めてこの名前を使っていたが、今は小説家の夢は諦めたし、ただの性欲発散でしかないのでもう必要ない。それでも源氏名は必要だと思ったが……、色々考えてやっぱり本名で行くことにした。「志歩」と言うパパからのプレゼントはわたしの宝物だ。別に恥ずかしいものでもないし、胸を張ってわたしはわたしだと言える。わたしに「志歩」以外の名前はもうない。
わたしは、わたし自身の道を選んでもう歩きだしている。
「ごめんって……志歩さん、いこうか」
「うん」
新しい名前、シオリではなく志歩。最愛の人が、大人になる為にわたしにくれたプレゼント。
セックスが好き同士がやることなら、わたしは一生セックスができないだろう。
ミニスカートはクローゼットに閉まった。
多分、シオリではなく、志歩でいる限りもう袖を通すことはない。ミニスカートも、フリルも、リボンも、まだ大好き。それでも、もう別の道を歩いてみようと思った。思いもしなかった別の目線や道を、探してみようと思った。少女服からの卒業は、その一歩だ。
長いマーメイドスカートが晴れた日の涼やかな風に靡く。実年齢相応のブランドの服だ。着たい物を着ればいいとは思うけれど、わたしはあの一件から趣味が変わった。だって子どもじゃなくても、無理をしなくてもわたしはもう大丈夫。
憧れた恋愛はできない。セックスもできない。共感できる恋愛描写なんてのも書けなくて、わたしは一生デビューなんかできないし、出来ずに夢を諦めた。あの人にはどうやってもおいつけない。
あの人の新刊が最近テレビで特集された。
わたしは契約社員を辞めて転職して正社員になった。
別々の道を歩んで、きっともう二度と交わることは無い。会うことも、手を繋ぐことも今後はない。死に目にも会えるかわからない。だってもうわたしはあの人とは別の人間だし。
わたしはお姫様ではなかったから、王子様への恋心は叶わなかった。元々恋ですらなかった偽りの恋心——ただの依存心は、あの日、泡になって消えた。村人Aはこれから自分自身の人生を送っていかなければならない。
でも大丈夫。
だって、それでもわたしは、わたしを愛せる。
守られる年齢、まだ毛の生えてない小さな子どもになる為に、もう毎回陰毛を剃る必要もない。
わたしはもう、大人だ。
(了)
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