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皺が少しずつ増え始めた手を取って、二人でたくさんの思い出の詰まった道を歩く。多くの人が足を止め、空から降ってくる美しい雨を見上げる中、私は夫である実さんに言う。
「今年も桜、綺麗に咲きましたね」
桜並木が続くこの道は、結婚する前から二人でここに足を運んでいた。スマホを向けて桜の写真を撮っている人たちのようにお花見をすることもあったけど、大半は違う目的のことが多かった。そして、その時の思い出は全て、私の宝物だ。
ぼんやりとした様子で桜を見上げていた実さんは、私の方にゆっくりと顔を向ける。そして、少しカサついた唇が言った。
「どちら様ですか?塔子さんはどこにいるんですか?」
私は持ってきた鞄の中からリップクリームを取り出す。目の前にいる彼が好きだと言っていた甘いオレンジの香りのリップクリームをそっと実さんの唇に塗った後、私は少し寂しさを感じながら口を開く。
「塔子は目の前にいる私ですよ」
実さんは何も答えずに再び桜を見上げる。その横顔を見つめながら、私は初めて会った日のことを思い出した。
実さんと私が出会ったのは、二十代前半のことだった。当時、私は小さな広告代理店で働き始めたばかりだった。
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