佐藤広次の秘め事

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「そしてあなたが教授の椅子をゲットすれば」 「そう。私がヒロちゃんを医療経済学の講師に抜擢するわ。薬剤の費用効果分析の論文を発表しているのだから、誰にも文句は言えないはずよ」  教授とは、企業に例えれば人事部長と財務部長が一つにまとまったポストだ。研究費を自由に配分し、先輩からの頼みでもなければ、好きな人物を教室員に抜擢することができる。 「さすがに准教授はダメか」  講師は助教と准教授の間のポストだ。 「そこはしょうがないわね。ヒロちゃんは若すぎるし、業績もまだ少ない。今准教授に据えたら、さすがにえこひいき人事だと周りから叩かれる。でも、出世コースは用意してあるわ」 「ほう」 「まず講師で一年、山波大で研究。講義というノルマは増えるけど、研究費は自由に使っていいわ。その研究成果を引っさげて、講座のお金と私の人脈でアメリカ留学。経済学で二つ目の博士号を取るのが望ましいわ。凱旋帰国した暁には、准教授の椅子に据えてあげる。おそらく、山波大学医学部、最年少准教授が誕生するはずよ」  うまい話だ。  広次は少しぬるくなったビールを飲んだ。  しかし順調にいくとは限らない。この色情魔、海外留学をしている間、他の医局員と良い仲になる可能性が存分にある。そいつを准教授に据える可能性だってある。  ただ、この話は、広次にとってもチャンスだった。  一銭も払わずに、アメリカ留学が実現する。その研究室で、世界に認められる研究成果を上げれば、アフリカを飛び回っていたようなしみったれた女医の足元にひざまずく必要もなくなるだろう。  帰国と同時に、医学部入学では果たせなかった、東京の大学に舞い戻ることが可能性がうまれる。さすがにT大は無理でも、名門私立大学のポストならばチャンスはある。  ひよっとすれば、アメリカの研究機関からお誘いがあるかもしれない。そうなれば、アメリカで研究を進める進路が開ける。あのおばさん(丸道)がおばあさんになるまで、医療経済学の准教授でこびへつらう必要が無くなる。  野望実現のためには、とにかく丸道准教授を、医療経済学の椅子に座らせることが必須だ。  もしも丸道がしくじったら、神経内科の助教から出世の階梯(かいてい)を登らなければならない。医長、講師、病棟部長、医局長、准教授。  そこまで粉骨砕身しても、教授のポストが回ってくるとは限らない。どこかの段階で、旧帝国大学出身の教授が就任するかもしれない。そうなれば、医師としての一生を、准教授として、さえない日陰者として過ごすことになる。  そんな人生はたまったものではない。  広次はビールの缶を握り潰した。  唐突に、広次のスマートフォンが鳴る。  患者の急変か? 受け持ちの入院患者は安定していたはずだ。それに、当直医だっているだろう。  恐る恐る電話に出ると、北口の明るい声が響いた。 「広次、今、ヒマ? 若手抄読会をやってるんだけど、今回は結構盛り上がってるよ。今からでも来ないか?」  何だ。ただの勉強会か。 「すまないが、論文のグラフを作っているんだ。また今度、たのむよ」 「女の子から?」  丸道が、猜疑心の強そうな目でにらむ。 「まさか。若手勉強会の、午後文献抄読会のお誘いだよ」  一年前、運命に導かれたように、医道ではなく、院内政治の領域に片足をつっこんでしまった。底なし沼だ。  広次は、純粋に医師としての勉強を重ねる北口をうらやましく思った。
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