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若手医師の会
山波大学医学部、神経内科の医局員室。窓からは梅雨の暗雲が立ち込めているのが見える。時おり、分厚い黒雲を切り裂いて、陽光が光の剣のように、ちら、ちら、と輝く。
愛は毎週土曜日開催の、午後文献抄読会に参加していた。午後文献抄読会とは、若手医師らが主催する勉強グループで、神経内科だけでなく、精神科や小児科といった、主に心や神経を扱うグループと、教室の垣根を越えて最新の知見を調べ合う会合だ。
「しかし蒸すな。どうして土日はエアコン切るかねえ」
小児科のレジデントがぼやく。
「コンピュータ買う余裕があったら、エアコンの一台も購入して欲しいよ。その方が、よっぽど優秀な頭脳が働くって」
精神科の助教が追従した。
30代前半だろう。精力的な顔つきをした先生だ。
「動物実験棟の方がエアコン完備されているもん、嫌になるわね」
精神科の、若手女医も賛同する。
多分年齢は愛と同じくらい。27歳前後だろう。
ようやく研修期間を終え、医師として一人前に育ってゆく年だ。これから精神科指定医を目指すのか、それとも精神医学をサブスペシャリティにして、他の分野に乗り出すのかは分からないが、前途は洋々だ。
年収も愛を超すはずだ。山波大学病院がいくら給料を払っているのかは不明だが、少なくとも700万円は超えるだろう。
「ありがとね、神山さん。論文全部コピーしてくれて」
「いいえ。大事な勉強会ですから、お役に立ててこちらが嬉しいです」
愛は精一杯の笑みを浮かべた。
山波大学医学部は名門を謳いながら、プリンターは各自が購入せねばならず、インク代も自分が払うというケチくさい医局運営だった。
愛は伸明から論文のアクセスキーをもらっていたため、出席者全員分の論文を、会社でダウンロードしてプリントアウトした。かなりの時間と分量だったが、営業なんだから仕方がないと割り切った。
おかげで大勢の医師に名前と恩を売れるというメリットもある。伸明の喜ぶ顔が見られるのも、役得かなと思った。
「佐藤は来ないって」
スマートフォンで会話を終えた伸明が、つまらなそうな顔をした。
「佐藤先生は、今やもっぱら薬剤の費用効果分析にご執心のようだから、プログラムを書いている方がお好きなんでしょ」
レジデントが茶化した。
「さて、精神科からなんだけど」
助教が論文をめくる。
愛も慌てて臨戦態勢をとった。
「『双極性障害の躁・うつ両方の病状を示す世界初の動物モデルの作成』。『Molecular Psychiatry』が出典だ」
愛は助教の説明に合わせて論文のページをめくる。細かい英文とグラフの連続に、頭痛がしてくるようだ。
「FADS1とFADS2の遺伝領域に細工をしたマウスだ。多分躁うつ病の原因遺伝子はこれだけじゃないと思うけれど、物理的に病態にアプローチできるようになった点がポイント高いね」
「すみません、FADSって、何ですか?」
愛は説明についていけず、伸明に小声で話しかけた。
「多価不飽和脂肪酸不飽和酵素の遺伝領域だよ。日本人のゲノムワイド解析で、日本人の双極性障害と因果関係が深いと言われている」
分かりやすくかみ砕かれても難解だ。要は血液をサラサラにする油を代謝する遺伝子の障害が、躁病や、うつ病の発病原因となるということらしい。
「論文では、DHA投与でモデルマウスのうつ状態の出現頻度に改善がみられた。これがそのグラフだ」
助教が論文のグラフを指さす。
DHA投与群と、そうではない飼育群とで、統計的に有意差が生じていた。
「DHAって、オメガ-3脂肪酸エチルのことでしょう?」
若手女医が愛に質問する。
「はい。おっしゃる通りです」
このレベルの、こと薬に限った質問ならば、薬学部出身の愛にはすらすらと答えられる。
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