密室での会談

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密室での会談

 愛は山波の一等地に立つマンションの駐車場に車を入れる。会社に寄って来たので、時刻は8時をまわっていた。対向車にはベンツがある。ぶつけたら洒落にならない。愛はギアをしっかりとバックにいれたことを確かめ、慎重に駐車した。  車のキーをロック。続いてサイフからマンション5階の鍵を取り出す。  力人との偽装結婚は2週間目に突入していた。お互い忙しく、顔を合わせても教授選の話題しかしない。その分プライベートには踏み込まれなかったので、愛には気が楽だった。  ドアを開け、玄関に入る。最高級マンションはオートロックだ。靴置きからは、微かな男性の匂いがした。力人の革靴が置いてある。  男くさいのはその一角だけだ。力人はきれい好きで、冷蔵庫は必要最低限のものしか置かないし、頻回にゴミ出しにも行ってくれる。  風呂は毛が残らないようにしてくれているようだし、トイレも3日に1度は拭き掃除をしてくれている。  マンションの壁紙は高級感漂うオリーブオイル色。家具は全て新品の、温かみを感じる木製だ。  愛は紺のスーツを脱ぎ部屋着に着替えた。綿の服はゆっくりと身体を伸ばせる。ベッドに倒れ込む。新品の羽毛布団がふわりと愛を包み込んだ。  寝室にはベッドが二つ。力人と一緒に寝ることがある。力人は一度も愛に肉体的な手出しも、言動もしていない。各々の野望で一緒になっているだけの関係だから、当然と言えば当然だ。だけど、女として意識されていないという感覚もして、一抹の寂しさがあった。  久しぶりに、陽子と話したくなった。友人でMRになった同級生は10人ほど知っているが、企業秘密が絡むため腹を割って話すことができない。その点陽子は勤務薬剤師のため、多少の秘密は話すことができ、気が楽だ。  しかも攻略目標の山波大学病院、その薬剤部に勤務している。コメディカルの噂も気になった。  愛は髪を手くしですきながらスマートフォンをタップした。もしかしたら忙しくて連絡がつかないかと思ったけれど、陽子は5コールで電話に出た。 「忙しいとこごめん。ちょっと話したくなってさ」 「こっちもだよ。もう3年目。グチをこぼしたいことたくさんだよ」  弱弱しい返事が返ってきた。 「病院の方はどう? 今、抗てんかん薬の調剤をしているんだっけ」 「そう。ウチの上司、美味しい所は山波大薬学部の非常勤にまかせて、外様の私は院内製剤の抗てんかん薬を機械的に作るだけの部署に回しやがった。絶対、院外処方に変えてね」 「うん。がんばる。出世もかかってるし」 「こっちもだよお。大学病院の非常勤は基本的に契約更新されるけど、最長5年。正式なポストに就かなきゃ、三十路で路傍に放りだされることになる」 「山波大学病院勤務の職歴があれば、引く手あまたじゃない」 「何のために今まで時給1400円で頑張ってきたと思うの。若さも恋も仕事に捧げたのよ。『袋詰め師』になんかなりたくない」  陽子は薬局薬剤師を『袋詰め師』と見下している。愛は営業で薬局を回ったことがある。陽子の言い分も解らないでもないが、小児科では子供と親に薬の使用法を教え、精神科では理解力の薄い患者に服薬の重要性を説明する。  薬局薬剤師は、医師に言われたとおり、ロボットのように薬を渡す職業ではない。ただ、それを言っては陽子の気分を害するだけなので、黙っていた。
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