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時計が12時を指した。時間だ。しかし教授が来ない。制限時間は1時間しかないのだ。
「時間になりましたが、開会は少し延長いたします。どうぞお弁当を召し上がって下さい」
愛は自社製品のロゴが入ったボールペンを配りながら、平静を装ってマイクで告げた。
ボールペンはくまなく行き渡るものの、弁当に手をつける医師はいない。そこここでささやき声が聞こえる。
「やあ。待たせたね。みんな、忙しいんだからお弁当食べればいいのに」
きっちり5分遅れて、大見教授が姿を現した。
恰幅が良く、白い白衣が良く似合う。優しそうな顔。しかし、これが本心なのかを悟らせないような目をしている。きれいな白髪。まさに博士のイメージ通りだ。医師としては小柄な方だが、教授のオーラとでもいうのだろうか、目に見えない威圧感がある。
大見教授は、さも当然といった態度で、最前列の一番よい席にゆっくりと座った。布袋に包まれた弁当箱を開ける。周りの医師は購買で買ったような弁当ばかりだったが、教授のお弁当は、野菜が多く、愛妻弁当と呼ぶにふさわしい彩りだった。
教授がお弁当を開いたのを確認して、医師たちがようやく弁当を食べ始める。
「それでは、定刻より遅れましたが、ランチセミナーを開催いたします。皆さまには、お忙しい中お集りいただき、誠にありがとうございます」
愛に課せられたハードルは二つ。開発途上の新薬、キスディープの情報提供と、中日本製薬の抗てんかん薬ジェネリックの売り込みだ。
愛はまず、開発途上の新薬の話をした。
「弊社は、大手製薬企業と提携して、キスペプチン受容体刺激薬、キスディープを開発いたしました。皆さまはご存じかと思いますが、キスペプチンは2001年に日本で発見されました、生殖に非常に密接にかかわる物質です」
指先でパソコンを操作し、スライドを切り替える。
健康成人男子に、キスディープを投与した実験データを表示させる。
「こちらは、性欲減退症状を主訴とした男性に、キスディープを投与した臨床研究データです。ご覧の通り、性欲の向上が見られました。しかし、副作用と呼ぶべきか、まだ分かりませんが、キスディープ投与で同性愛になったという回答が上がりました。今後、この作用についてさらなる研究をし、性機能改善薬として先生方に使用していただけるよう努力いたします」
集合した医師たちは、弁当を食べる手を止めてスライドに見入っている。
第一のハードルはクリアした。
愛はほっと一息ついた。どこからともなく、生姜焼きの香りが漂ってきて、空腹感を覚えた。
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