医療経済学教室教授選・開幕

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医療経済学教室教授選・開幕

 桜の季節といえど、夜は寒い。吹きつける風が花びらをそよ、と揺らす。  山波大学病院からは、大勢の患者が診療を終え、処方箋を持って病院の門前に建つ3つの薬局のどれかに入ってゆく。  高齢者は電子化された会計システムに慣れず、事務の若い担当者が説明に走った。  外来部門が閉まり、火器責任者のナースが診察室にカギをかけ、医局にも、ナースルームにも平穏な一時が訪れる。  救急救命センターの明かりが灯る。救急だけは、夜が主戦場だ。いつ、急を要する患者が運び込まれるのか分からない。救命救急医をリーダーにして、訪れるかもしれない修羅場を想定したミーティングが開かれる。 「今日も先客万来だねえ」  北口伸明はマスクを外し、外来診察室から顔を出した佐藤広次に声をかけた。新型コロナウイルスはゴールデンウイーク明けに5類相当となる予定だ。しかし病院でクラスターが発生したら醜聞となる。当分の間は、病院スタッフ全体にマスクをつけるように通知が出ている。 「まったく、好きで3分診療しているわけじゃないんだけれど、こう患者が多いとね」  8時間に及ぶ仕事を片付けた後だが、広次の顔には疲労の色は無かった。いつもの精悍な顔つきである。 「神経内科(ウチ)の医局でコーヒーでも飲んでいくか?」 「ありがたい。ご一緒するよ」  二人は連れ立って、医局へ戻った。  伸明と広次は同期で、ライバルでもあり戦友だ。  医学部は、一部の天才を除いては独力で全ての試験を突破できるほどたやすくはない。お互い分からない科目をフォローしあい、実習では鼻の穴や耳の奥まで観察される仲となる。  過酷な6年間をともに過ごしたという連帯感が生まれるのだ。  神経内科の医局は、30人ほどの医師が机を並べる大所帯だ。広次の席は真ん中のあたり。出世したな、と伸明は思った。 「インスタントで悪いが、この銘柄は結構いけるぜ」    広次は医局に備え付けの白いカップにコーヒーの粉を入れる。 「お前が呼吸器から神経内科に鞍替えするとは思わなかったよ」  ポットでお湯を入れながら、広次が口を開いた。 「高齢者の患者さんを診ると、認知症がかった人が多くてね。俺のばあちゃんもアルツハイマー型を患った経験があるし、やりがいがありそうだと思ったんだ。ウチ(呼吸器)の教授の許可もとったし、今年の秋か、来年からこっちで世話になることになりそうだ」  伸明は広次から渡されたカップを持ち、「サンキュ」と言って口をつけた。まろやかな苦みの奥に微かな酸味が感じられて、美味い。カフェインで疲労が飛んで行くようだ。  
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