医療経済学教室教授選・開幕

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「ところで、例の教室、いよいよ本格始動するみたいだぜ」  カップに口をつけながら、広次が低い声で言った。 「ああ。医療経済学教室か。確か中日本製薬の寄付講座だったよな」  寄付講座とは、企業がお金を出して運営する講座だ。開設された当初は、大学病院と営利関係のある企業が教室を持つなんてとんでもないと批判もあったが、その声を押し切って誕生した講座だ。  あくまで噂だが、当時の病院長と中日本製薬の社長が、同じ山波大学の同窓生で、昵懇(じっこん)の仲だったという裏事情があるらしい。  そんなことを思いながら、伸明は口を開いた。 「病院経営が赤字だからな。いよいよ院長が強力な教授を持ってくるということか」  元々赤字体質の大学病院が、新型コロナウイルスの感染爆発で、さらに収益が減少した。このままでは給料の減額や、医局のポストが削減される懸念も出てきている。 「今までは、特任の、客員准教授が一人いて、毎回市内の病院の副院長クラスを招いて、お飾りの経営論を講義していただけだった。研究なんて、ほとんどしてない」    特任とは、言い方は悪いが「お金が余っているから雇うよ」というポスト。客員とは、大学の正規職員ではないことを意味する。  広次が言葉を続ける。 「その准教授が、もう高齢だからと引退する。病院長は、本気で経営を立て直すだけの人材を教授に招きたいらしい。教授選、荒れるぜ。伸明、俺達は神山とかいう若いMRの女の子に、こびを売っておいた方がいいかもしれない。どこかの段階で、中日本は教授選に介入してくるぜ」 「いいって。俺は。お前みたいにそんな雲の上のことまで先読みできない。それにしても、大見教授もえげつないことをするよな。Lefora(ラフォラ)病なんか持ってきて。あれ、たしかカルバマゼピン禁忌だろ?」 「禁忌ではないが」  広次は顔をしかめる。 「病状が悪化する可能性があるから、悪手になるな。神山さんは謙虚でよかったよ。もし調子に乗って、『弊社のカルバマゼピンジェネリックをお願いいたします』なんて言ったら、医局を出禁になったと思うぜ」 「さすが医学博士」  伸明は広次の知識に驚き、小さく拍手した。  広次は大学院に進学し、博士号を取得している。テーマは『難治性てんかんにおける2剤投与の効果』についてだ。  てんかんの治療は一つの薬剤を十分量投与するのが原則だ。しかし広次の研究は、最初から2剤を投与するというものだった。成果は広次の投与法が標準治療を上回った。  その功績で、広次はてんかん治療の一分野においてかなりの知名度を持っている。
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