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先生に家賃を出してくれたお礼を述べ、家に招き入れた。
居間に入った瞬間、先生の眉間に皺が寄った。不機嫌顔が濃くなる。
「君の母親が亡くなって四ヶ月になると思うのだが……。遺産整理はしているのかね?」
「全然していません。わたし、物を捨てられないタイプなんで」
物が多いうえに、散らかり放題の我が家。
母が生きていた頃は、わたしも片付けを頑張っていた。けれど、今はひとり。お菓子を食べた袋を置きっぱなしにしても、怒る人はいない。
ソファーの上に置いていたケーキの空き箱をゴミ入れに捨てる。
「どうぞ座ってください」
「ノアナ・シュリミア。確認したいのだが、今捨てたケーキの箱は、私が買ってあげたケーキ屋のものだろうか?」
「そうです」
「ケーキを買ったのは一昨日なのに、なぜ箱を捨てていない?」
「なにかに使えるかなと思って。でも、特になにに使う当てもないので、もったいないけれど捨てました」
「もうひとつ確認したい。流し台に、皿が山積みになっていたのだが……。パーティーでもしたのか?」
「いいえ。面倒くさくて、洗っていないだけですけど?」
先生は、まるで世界が終わるかのような悲壮な声を出した。
「なぜ、すぐに洗わないのだ! 不衛生だ!!」
「そうですかぁ? 棚に皿があるうちは、洗わなくてもいいんじゃないですか?」
「洗い物のどこが面倒くさいのか、理由を聞かせてくれないか?」
「逆に聞きますけれど、皿洗いの好きな人ってこの世に存在します?」
「いる。私だ」
「へぇ。先生って変わってるぅ」
茶化すように「ヒュー♪」と口笛を吹くと、先生は盛大なため息をついた。
「皿洗いができない。片付けもできない。洗濯物が床に置きっぱなし。靴下は脱ぎっぱなし。お菓子の空袋を捨てていない。昼なのにパジャマのまま。これで、妻体験ができるのか?」
「むふー! 先生なんて、家に上げるんじゃなかった! 家賃を出してくれたから、いい人なのかもって見直してあげたのに。やっぱりすっごく嫌な人。大嫌い!」
「むふー、とはどういう意味だ?」
「教えてあげない!!」
腕組みをし、頬をふくらませて「ぷんっ!」と顔を背ける。
綺麗に掃除された家だったら、先生は嫌味を言わなかっただろう。片付けられないわたしが、きっと悪い。
わかっている。頭では、わかっている。なのに、怒りの感情が収まらない。
家事のできない怠惰なノアナ・シュリミアという、人格そのものを否定されているように思ってしまうから。
「どうせわたしは、料理も片付けもお掃除も裁縫も下手ですよーだ! 家庭科の先生から、こんなにも家事センスのない人を初めて見たって言われましたよーだ! 妻体験、やっぱりやめる。ブラック企業で実習する」
涙がじわっと浮かんでくる。感情と涙が直結していて、嫌になってしまう。
先生はわたしを見つめたまま、小さなこどもに言い聞かせるかのようにゆっくりと話しだした。
「ノアナ。君は勘違いをしている。職業体験実習は、優れた人間のためにあるのではない。君のように、自分の才能がわからない者。新しい環境に馴染むのが遅い者。社会に出るのが怖い者。人間関係につまずきやすい者。そういった不安を抱えている生徒が、一歩を踏み出しやすいように設定されている。実習先もそのことを理解しており、失敗を受け入れる器ができている。失敗していい。できなくてもいい。ゆっくりでいい。まずは、体験すること。体験するうちに、変化が表れてくる。その変化の芽を良い方向に持っていくことが、大人の役目だ」
「ふわぁ〜ん!!」
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