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「失敗していい」「できなくてもいい」一生懸命に頑張っても人並み以下の成績しか上げられない、おバカで不器用なわたしへの救いの言葉。
こんなわたしでも存在していい。社会に居場所があるよ。そのままを許すよ。
そう言ってもらえているようで、涙が止まらない。
嗚咽をあげるわたしの頭を、先生がポンポンっと軽く叩いた。
「片付けができないのは、物が多すぎるからだ。まずは、必要なものと必要でないものを分けるところから始めたほうがいい。といっても、必要だと思える物が多いだろうが。そういった場合は第三者と、使用頻度や希少性、代替えのきくものなのか、話してみるといいだろう。手放す勇気が育つ。──妻体験実習というのは、なにも、君が一方的に家事を頑張るものではない。実習相手である私が指導することに意味がある」
「先生……ありがとうございます。わたし、妻体験頑張ります。よろしくご指導お願いします……」
意地悪だと思っていた先生の、思いがけない優しさ。劣等感や惨めさや自己否定が吹き飛んで、勇気と自信がでてくる。
涙目で「えへへ」と笑うと、先生はなぜか顔を逸らした。
「げ、元気がでたようでなにより。だが、まぁ、不器用で要領の悪い君のことだから、指導には苦労がつきまとうだろう。胃薬の準備をしておいたほうがいいかもしれんな」
「なんで嫌味を言うの! ぷんっ!! ……先生、顔が赤いですよ? 照れてます?」
「照れているのではない。君がえへへと笑ったとき、鼻の穴がふくらんだのが面白くてな」
「ピキキ……わたしを怒らせるのがうまいですねぇ!」
ユガリノス先生は、良い人なのか嫌な人なのか。優しいのか意地悪なのか。わからない。
突然、先生の顔が強張った。耳を澄ませている。
「台所からカサカサという音がする。まさか……ゴキブリがいるのではないよな?」
「ああ、ゴキブリね。いますよ。でも大丈夫です。ゴキブリ叩きは得意なんで」
先生を安心させるために、テーブルを力強く叩いてみせた。それなのに先生は、唸って天井を仰いだ。
「ゴキブリを叩く……潔癖症の私には無理だ……。君は勇ましいのだな。妻として、その点は評価しよう。プラス二十点だ」
「ありがとうございます!」
早速の高評価に嬉しくなる。はしゃいでいると、先生の頬がほんの少し緩んだ。
わたしと先生の間に穏やかな空気が流れる。
わたしたちは、いい形で歩み寄ることができる。そんな気がした、十分後——。
「先生なんて大っ嫌い! 帰って!!」
先生をポカポカ叩き、家から追い出してしまった。
事の始まりは、片付けの指導。
部屋を見回した先生は、うさぎのぬいぐるみに目をとめると、「随分と汚いぬいぐるみだ。耳が半分とれているぞ。捨ててもいいんじゃないか」と言ったのだ。
先生を追い出してひとりになった部屋で、半分とれた耳から綿のでているぬいぐるみを抱きしめる。
遠方の町に薬草を届けに行った父が、ピンク色のうさぎのぬいぐるみをお土産に買ってきてくれた。ピンクはわたしの髪色。
父は言った。「このうさぎ、ノアナみたいだと思ってな。色もつぶらな目も、ノアナそっくりだ」
「お父さんからもらった大切なぬいぐるみだもん。絶対に捨てられないよっ! 先生のバカ。無神経!!」
わたしが十歳のとき。父は薬草を採りに山奥に入って、崖から落ち、死んだ。
父が大好きという想いは薄れることがない。けれど、記憶は薄れていく。
両親を忘れるのが怖くて、わたしは物を捨てることができない。
「お父さん、お母さん。大好きだよ。会いたいよ。寂しいよ……」
胸が切り裂かれてしまったかのように痛くて、わたしはわんわんと泣いた。
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