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白亜の別荘の正面には澄んだ湖が広がっていて、カモがのどかに鳴きながら泳いでいる。あたたかな春風に水面がそよぐ。
先生は別荘の裏へと歩いて行った。追いかけると、別荘の裏には広い庭園があった。
「わあーっ!! 写真集に出てくる庭みたいで素敵! 歩いてもいい?」
「どうぞ」
父は薬草師で、母は園芸師。両親の影響で、わたしも幼い頃から植物に関わってきたから、緑豊かな場所が大好き。
スキップするような軽やかな足取りで、レンガの小道を歩く。
小道の両側に植わっている多種多様な植物は、いつでも花を楽しめるよう、開花時期の異なる植物が組み合わさっている。その植物の合間に、キノコの形をした陶器が置いてある。
大樹の下にはベンチがあり、アーチには薔薇の蔦が絡まっている。
作業道具が入っている木製の小屋は、メルヘンの世界をイメージしたような赤い三角屋根と丸窓。
赤い帽子が見えたので茂みを覗いてみると、とんがり帽子を被った置物の小人が立っていた。
ラベンダーの根元に小さな家があって、その家の扉を開けてみると、木彫りのリスの親子が住んでいる。
「これって……」
記憶の引き出しが開き、忘れていた記憶が浮上する。
走って、ユガリノス先生のところに戻る。
「わたし、この庭知っている!! お母さんの仕事についてきて、何回か来たことがある! わたしの好きなオーナメントを置いてもいいと言ってくれたのって……先生?」
母は園芸師として、東南地区にある別荘の庭管理を任されていた。
美しい庭なのだと母が誇らしげに話したので、草むしりの手伝いをするいう名目で連れてきてもらった。十分ほどで草むしりに飽きて、あとは遊んでいたのだけれど。
遊び疲れて、ふと別荘を見上げたら──二階の窓に若い男性が立っていた。
肩につくぐらいの、サラサラの金髪。菫色の瞳。王子様のように整った顔と、儚げな雰囲気。
手を振ると、男性は慌ててカーテンを閉めた。だがすぐに窓が開いて、「君の好きなオーナメントを庭に置いてもいい」と彼が叫んだ。
わたしはこのとき、十四歳だった。男性の声を聞いたのは、これが最初で最後。
その後。窓辺に立っているのを何回か見かけたが、彼は痩せぎすで、不健康な青白い顔色をしていた。病人なのだろうと、思った。彼は、わたしがいるときに庭に出てきたことはなかった。
それから半年後に母が病気になり、別荘の庭管理人を辞めた。
わたしは庭のことも、その男性のことも忘れた。
記憶の引き出しから出てきた、母の優しい声。
──お母さんも、ジュリサス様から聞いたわ。お言葉に甘えて、ノアナの好きなオーナメントを選びましょう。
「そうだ……。名前は、ジュリサス様……」
金髪で菫色の瞳。儚い容姿のジュリサス様。
黒髪で碧眼。陰気な容姿のノシュア・ユガリノス先生。
名前が違うし、髪と瞳の色も違う。
わたしは首を横に振って否定した。
「違うよね。ジュリサス様って名前だったもん。先生のお兄さんか弟?」
「ジュリサスは……死んだ」
「そうなの? いつ?」
「昔」
仕方なく答えているといった、重い口ぶり。わたしは口を噤んだ。
誰にでも話したくない過去がある。そしてそれを共有できるほど、わたしと先生は親しくない。
太陽が山際にかかる。風の冷たさに寒気がして、ブルっと震えた。
「中に戻ろう」
「うん」
先生に促されて、別荘内に戻る。
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