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ユガリノス先生である。
「下校時刻はとうに過ぎている。早く帰りなさい」
「ノアナが、春休みの実習先を書けなくて困っているんです。妻体験をしたいようなんですが、家事ができないズボラなノアナでも、受け入れてくれる男っていますか?」
「ルーチェ、勝手に話さないでよ!!」
「しょうがないじゃない。職場体験実習をしないと、単位をもらえないんだよ。ノアナが二年生にならないと困る」
「自分ファーストのドライな人間だと思っていたのに……。わたしに熱い友情を感じてくれていたんだね」
「勉強嫌いなノアナのおかげで、試験で最下位にならずに済んでいるんだもん。ノアナが留年しちゃうと、あたしとベルシュで試験の最下位を争うことになっちゃう。万年最下位のノアナが必要なの」
「それが理由⁉︎ 友情はどこにいった!」
「友情ね。はいはい。ここにあるある」
「なんか適当! 流されている!」
わたしとルーチェが騒ぐのを、ベルシェがニコニコ顔で見守っている。
いつもの構図だけれど、違うのは、ユガリノス先生がこの場にいること。先生は、わたしの実習計画書を手に取った。
「体験職業……妻?」
「あ、あのっ! 特定の誰かの妻というわけではなくてですね。全世界に向けて発信しています。妻体験をさせてくれる人を、年齢限定で募集しています!」
「年齢限定?」
「はい。同級生限定です!」
視線でベルシュを絡めとるかのように、じっと見つめる。
ベルシュは青ざめ、鞄を抱えた。
「帰って、パンを作らないと!」
ベルシュは駆け足で教室から立ち去った。
わたしの前には運命の分かれ道がある。ベルシュの逃亡によって、ベルシュパン屋で実習する道は閉ざされた。残りの道は、三つ。
ユガリノス先生の妻体験をするか。それとも、人気のないブラック会社で職業体験をするか。はたまた、もう一度一年生をやるか。
重い沈黙を破ったのは、陰気な低音ボイスだった。
「家事能力の低そうな君を、体験とはいえ、妻をして歓迎する男がこの世にいるだろうか。爪楊枝のほうがまだ、需要があるだろう」
「なんて嫌味な発言! きぃーっ!!」
「それよりも、体験職業欄に妻と書くのはやめなさい。家事を体験したいなら、家政婦や清掃業務や料理アシスタント。はたまたベビーシッターなど、いくらでも書きようがある。なのに妻とは……。夫婦にしかできないことを体験したいのか?」
「夫婦にしかできないことって、なんですか?」
「私に聞くな」
だったらルーチェに聞くしかないと顔を向けると、「知らないなんて五歳児か!」とのツッコミが入った。どうやらわたしは五歳児以下らしい。
「残念だが、一般企業は体験者募集を締め切っている。融通の効く個人事業主も、今から面接となると渋い顔をするだろう。人が寄りつかないブラックな職場しか残っていないぞ。労働条件の悪いところにいると、働くことが嫌いになり、生きること自体がつらくなる。労働環境は大切だ」
「だったらどうすれば……」
先生は長いため息をついた。モジャ前髪が、吐息でふわっと浮いた。
「君はまったくもって、手のかかる生徒だ。仕方がないから、実習先に私の名前を書きなさい」
「は?」
「問題児の君を留年させたら、来期一年五組を担当する先生に迷惑がかかる。不本意だが、私が君の相手になろう」
おとなしく聞いていたルーチェが悲鳴をあげた。
「ちょちょ、ちょっと、ノアナできるの⁉︎ 先生って極度の潔癖症だよ! チョークの粉が服にかかるのが嫌で、ほとんど板書しないっていうのに。人差し指で埃チェックされて、ネチネチと嫌味を言われるのが目に見ているよ!」
「…………」
だが、他に道はなし。渋々、実習先の欄に『ユガリノス先生』と書く。
運命に逆らおうとしたのに、結局、ユガリノス先生の妻体験をすることになってしまった。
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