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森の奥にある、人の気配のしない暗く静まり返った城。
朽ちかけたその城にたった一人残っていた男は、夜明けまでもう少しという頃に、寝台から身を起こした。
近付く懐かしい気配に、男は居ても立っても居られず立ち上がる。
男の足元で、部屋の薄闇よりもずっと暗い漆黒の髪が揺れた。
長く真っ直ぐな黒髪をなびかせて、男は寝巻きにスリッパのままで、石造りの廊下をパタパタと走る。
中庭に着く頃には、彼女の羽音が耳に届いた。
男は夜空を仰ぐと、遠く羽ばたく黒い翼を見上げて、思わず呟いた。
「サラ……。無事で良かった……」
いつ帰るかも分からない相手の帰りを待つ事は、無事を祈り続ける事は、辛い事なのだと、男は初めて知った。
今まで、男の知る『待つ時間』はいつも幸せだったから。
子ども達と一緒に家で彼女の帰りを待つ日々は、彼にとって、とても幸せな時間だった。
料理だって、工作だって、子ども達と工夫して作ったものを、帰った彼女に見せるのが楽しみだった。
洗濯だって掃除だって、いつもより上手くできれば誇らしく、ピカピカになった日には彼女に早く見せたいと思ってしまう。
だから、待つのがこんなに辛い事だったなんて、知らなかった。
彼女は……、子ども達は、元気にしているだろうか。
私がいなくなって、ずいぶん悲しませてしまっただろうと思っていた。
もしあの子達が、私の帰りをこんな風に、ずっと待っていたのだとしたら……。
帰らないかもしれない人を待つのは、こんなに辛い事だったのに。
そんなことも知らないままで、私はあの子達を置いてきてしまった。
せめて、もう帰らないと伝えていれば、少しは彼女の心を癒せたかも知れないのに。
自分が、帰りたかったばかりに、それすら言えなかった。
きっと私を待っていてくれると……、なんの約束も、相談もしなかったくせに、勝手に思い込んでいた。
――ようやく戻ってきた町に、あの子達は居なかった。
あちこち探したが、行方は分からないままだ。
生きているのかも、死んでいるのかも分からないまま。
それでも、死んだ事がハッキリしていないのなら、生きている可能性だってある。
それだけに縋って。子ども達が生きていると信じて。
子ども達のために……。と。
私には、他に、彼女やあの子達のために出来ることが思い付かなかった。
私のしようとしていることは、全くの自己満足で、なんの意味もない事かも知れない。
それなのに、そんな私の我儘に、サラを巻き込んでしまった。
二年前、サラが雪と陽を持って帰ってくれて、嬉しかった。
うっかり、ありがとうと、よくやってくれたと、手放しで喜んでしまった。
サラが幸そうに笑うので、私もつられて幸せな気分になってしまった。
そうじゃなかったのに。
私が嬉しかったのは、環が手に入ったことよりも、貴女が無事だった事だと。
あの時ちゃんと私が伝えられていたら、彼女は側にいてくれたかも知れなかったのに。
今度は、今度こそは。
サラが四環を持っていようといまいと、その無事が嬉しいと、伝えたい。
男は、中庭の中央に降り立った少女が、その勢いのままこちらに駆けて来るのを、両手を広げて待った。
「父さん!」
少女は黒い翼を畳みながら、彼女にしては珍しい大きめの声で男を呼んだ。
あの様子だと、環は無事手に入ったらしい。
サラの手元の袋からは、確かにそれらしい力を感じる。
男が広げた腕の中に、少女は真っ直ぐ飛び込んできた。
「ただいまっ」
少女……と言うほど、もう小さくもない、十九歳ほどの見た目の彼女の頭を撫でて、男は心を込めて伝える。
「お帰りなさい。……心配していましたよ」
男の言葉に、少女は慌てて袋を差し出す。
「ちゃんと、取って来たよ……」
「そうではなくて……」
男が困った顔をすると、サラは途端に不安げな表情になった。
「い、いえ、環を持って来てくださった事はとても感謝しています」
今にも泣き出してしまうような気がして、男は咄嗟に感謝の言葉を告げる。
「……よかった……」
ふにゃっと表情を崩して、サラは男の肩口に額を寄せた。
男はなんと言うべきか言葉を探しながらも、サラの髪を撫でて告げる。
「……貴女が無事で、私は安心しました……」
「うん……。私も、父さんが元気そうで、安心した……」
サラが心底ホッとしたように呟くと、男の背や肩を撫でる。
その無事を確かめるように。
男は、この十年間、少女を助けて守っていたつもりだったが、いつの間にか、自分の方が守られているのではないだろうか、と、少しだけ感じた。
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クリスの住む家。その前の道には、それなりの道幅があった。
クリスの家は、村の中心部から遠く離れた端の端だったが、奥まった場所ではなく、村から出る街道に面していた。
おそらく、いざという時に村の外へ逃げるためなのだろう。
村に住む人々にはできる限り迷惑をかけまいという彼女の意思を、久居はその家から感じた。
朝早くから旅立つというリル達の見送りに、クリスと牛乳は家の前へ出ていた。
リルが、クリスの両手を不意に取る。
「ごめんね、クリス。ボク、絶対環を取り返してくるからね!」
リルは薄茶色の瞳で、クリスの顔をまっすぐ見つめて約束した。
「う、うん……」
クリスは、返事に迷っていた。
(絶対、取り返して欲しい)そう思う気持ちは当然ある。
でも、それで彼らが傷付いたり、ましてや死んだりするのではと思うと……。
(あの環に、そんな価値が本当にあるんだろうか……)
今まで、あの環を巡って、どれだけの命が消えたんだろう。
ずっとずっと昔から、代々守り続けてきた。母はそう言った。
それは、ずっと昔から、あの環のせいで人が大勢死んでいったという事ではないだろうか。
風を起こす環と、空中の水を集める環。
使い方次第で、様々な事が出来る。
どんなに凄い物なのかは身に染みて分かっている。
……本当は、もっと正しく使えれば、沢山の人を救う力になるはずなのに。
ずっとずっと隠して、誰にも見つからないように逃げ隠れ暮らして……。
こんなの、意味がないと思う。
神様はなんだってこんな厄介なものを、人に預けたというのか。
「にゃぁ」
腕の中、牛乳の声に、いつの間にか俯いていた顔を上げる。
目の前のリルは、心配でたまらないという顔をしてこちらを覗き込んでいた。
クリスには、それがまたどうしようもなく悔しかった。
昨日までずっと寝てたくせに。
全然起きなくて、私も、久居さん達もすごく心配したって言うのに。
「クリス……大丈夫……?」
リルが、薄茶色の優しげな色をした瞳をうるりと滲ませて、気遣わしげに尋ねた。
「っ!」
クリスは息を呑む。
(大丈夫じゃないわよ! そんな風にウルッと見上げないでよ!!
こっちが恥ずかしくなっちゃうでしょ!!)
と胸中で叫びを上げながらも、クリスはなんとか「大丈夫……」とだけ答える。
「やっぱり心配だよね。ごめんね、取られちゃって……」
リルがもう一度謝る。
その申し訳なさそうな潤んだ声に、クリスは思わず声を上げた。
「っ違うの! 私が心配なのは、リル達が!!」
「……ボクたち?」
リルがきょとんと瞳を揺らして、首を傾げる。
クリスは、じわりと赤みが差す頬を自覚しつつも、仕方なく言葉を紡ぐ。
「リル達が……その……」
けれど、なんて言えばいいのかが分からない。
私のためじゃないと言われてしまえばそれまでだし、私にそんなことを心配する資格なんて、きっとどこにも無い。
黙ってしまったクリスの言葉を、リルが繋ぐ。
「怪我しちゃうかもってこと?」
「う、うん……」
クリスの腕の中で牛乳が『そんなのクリスが心配する事じゃねぇだろ』と抗議しているが、それに気付いているのは久居だけだ。
「えへへ、ありがとう」
リルがにっこり。嬉しそうに微笑む。
まだクリスの手はリルの両手に包まれたままだ。
それを、リルは大事そうに持ち上げた。
「クリスは優しいね」
ふわりとリルが笑う。それはそれは幸せそうに。
「そっ…………んな事、ないよ……」
優しいなんて、そんなことない。
こんなの、優しさでも何でもない。
私がただ、申し訳なく思ってるだけ。
クリスは、どうしてこの少年が、たったこれだけの事で、こんなに嬉しそうにしてくれるのか分からなかった。
ただ、頬が真っ赤になるのをどうすることもできず、少女は俯いた。
瞬間、ざわりと毛を逆立てた牛乳が、苛立ちに任せてリルの手を掻き切ろうとする。
が、その途端背筋に冷たい物が走り、真っ白な猫は動きを止めた。
クリスの二の腕越しにそろりと牛乳が振り返れば、久居が、後ろから鋭い視線で牛乳を射殺している。
リルはそんな攻防に全く気付かぬ様子で、ニコニコと嬉しそうに笑っていた。
レイは、それを一歩外で眺めながら(よく分からん関係だな……)と思った。
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